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専修大学教授 高木 侃さん(太田市石原町)

【略歴】中央大学大学院修士課程修了。縁切寺満徳寺資料館長。専攻は日本法制史・家族史。博士(法学)。著書に「縁切寺満徳寺の研究」(成文堂)など。


江戸に学ぶ(中)

◎老後は子に依存せず

 今回も江戸の親子である。前回(四月四日付)は、高齢者である老親が老後の安定のため、自衛的になした契約について述べた。すなわち、一般的には隠居面といわれた土地を留保したが、親が隠居し財産を跡継ぎに譲渡(贈与=相続)するときは、それと対価的関係に立つ定量化された扶養義務を子に課した。このことは親が隠居(贈与)するときは、子による扶養が前提となっていたのであるから、親は安心して隠居(贈与)することができた。いずれの場合も契約文書が作成され、原則として両者が保管した。

 これらは比較的に富裕な庶民階層のことのように思われるであろうが、極貧層でもなされた。例えば、江戸近郊の武蔵国荏原郡太子堂村(東京都世田谷区)では、生活苦からか倅(せがれ)夫婦は江戸へ出てしまい、病弱な両親の再三の要望にも帰村しなかったが、倅に毎月飯米「一斗二升(一日四合)」を送ることを約束させた。跡継ぎが都会にあこがれて、親を見捨てて出ていってしまうこともあったが、最低限の世話はさせたのである。また、甲斐国巨摩郡飯富村(山梨県身延町)の例では、他出して老母を弟に預けた兄が、母存命中は盆暮れに「米二俵半と金二朱」を送る約束をしている。

 さて、老親は隠居面があれば、少なくともそこからの生産物によって世帯を維持することができる。しかし、金銭や現物給付にだけ頼った場合、子がその契約を履行しないときは生活が保持できない危険があるが、そのとき親はどうしたのであろうか。

 まず、契約を守らない子供に履行を迫ったに違いないが、これが入れられないときは、現物を返還させた。一八五六年、上野国吾妻郡原町(東吾妻町)の例では、先に譲渡した土地の代わりに月一分の隠居料が約束されたにもかかわらず、半分も支給されなかった。やむなく親類の加勢を得て、土地の一部を「養育の備え」として子から返還させることで決着した。

 それでも、らちが明かないときは支配の役所に子供を訴えた。羽州東村上郡久野本村(山形県天童市)の例では、かつて「隠居介抱金契約」があったが、跡継ぎがこれを実行せずに滞ったので、名主に訴え出た。一八一六年のことで、あらためて毎月「金二分二朱と米一俵」を渡す契約を名主あてに差し出して和解した。また、取り扱いが悪いとして、名主役の養子を訴えた老母の例が、相模国大住郡羽根村(神奈川県秦野市)に見られる。

 契約が履行されないとき、親は子を訴えてでも約束を守らせた。緊張関係を伴った親子は、ときに敵対することもあったから、自分の老後は跡継ぎに全面的に依存せず、自分で始末する覚悟から出発した。現在では、親子間における契約を文書などにするのはむしろ「水くさい」として実行しないのに、江戸時代は親子でも契約文書によって、のちのち起きることが予想される紛争を未然に回避した。そして紛争が起こったとき、最初の契約に立ち戻って解決を見た。契約が二重の意味で重要な役割を果たしたのである。











(上毛新聞 2006年5月12日掲載)