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東京農工大学名誉教授 鹿野 快男さん(高崎市城山町)

【略歴】東京都出身。明治大大学院博士課程修了。主な専門は磁気回路、リニアモーターなど電磁機器の福祉機器への応用研究。元国立公害研究所客員研究員。現在、ヤマト環境技術研究所顧問。

江戸しぐさ

◎精神のインフラ整備を

 かつて、「おばん」という中年女性を軽蔑(けいべつ)した言葉が流行した。この言葉は社会性に欠けた自分勝手な行動をする中年女性を意味した。込んだ電車の中で、買い物の荷物を隣の席に置き、二人分近くの席を確保する。たとえ疲れた人が目の前に立っていても、素知らぬ顔をする。そういったずうずうしい女性のイメージであった。

 ところが最近の電車内のマナーの乱れには疑問を持つばかりでなく、憤りさえ感じる。車中は総おばん化である。男女を問わず、若きも熟年も隣との間を大きく取って、自分さえゆったりと座れたら前に立っている人がお年寄りでもお構いなし。先に自分の座る場所を確保したら、それを当然の権利と思っているように見える。少し広く空いている所を詰めてくれるように頼むと、嫌々ながらわずかに詰める。七人掛けの椅い子すに五人、六人で座るのは当節当たり前のようである。譲り合いの乗車マナーは一体、どこに消えてしまったのであろうか。

 「江戸しぐさ」という優雅なしぐさを表す言葉があるのをご存じであろうか。乗り物や交通に関するものとしては「腰浮かし」「傘かしげ」といった動作に関するものがある。「腰浮かし」は江戸時代、渡し舟が混雑したときに、ほんの数センチほどを舟が揺れないように腰を浮かせて詰めて一人分を譲り合うこと。「傘かしげ」は細い路地を傘をさして行き違うときに、傘をお互いに傾けて、ぶつからないように譲り合ってすれ違うこと。このように見ず知らずの人に対しても、お互いを思いやって生活をすることを「江戸しぐさ」という。

 来日して日本をよく理解した欧米人の多くは、日本の文化を高く評価している。古くはキリスト教のミッションで来日した宣教師たちは、ヨーロッパとは異なった文化ではあるが、日本人が非常に高い文化を持っていて、キリスト教をすぐ理解したことを評価している。また、江戸時代のタウンゼント・ハリス初代米国駐日総領事も、やはり日本文化を褒めている。貧しくても、礼儀正しく、清潔で、子供を大切に育て、お互いが譲り合いつつ生活をしている日本文化を高く評価しているのである。

 ところが、豊かになった現代の日本人が、江戸しぐさほどの当たり前のマナーを身に付けていない。むしろ失ってしまった。自分勝手で自我だけが優先してしまっているように見える。戦後、自己主張をすることを教えた教育が原因なのか。それとも豊かさだけを追求した結果なのか。核家族化した家庭に、「世間さまに迷惑をかけるのではないよ」と声を掛けるお年寄りがいなくなったからであろうか。昨今、強盗や殺人事件の多いことも無関係ではないように思える。

 はたして心の荒廃を正すには、どうしたらよいのであろうか。乱れた電車の乗車マナーが当たり前と思う人が増える前に、何とかしたいと思うのは私ばかりではないであろう。知恵を出し合い、住みよい日本にしたいものだ。日本の古きよき社会的、精神的インフラを再構築する努力をしようではありませんか。












(上毛新聞 2006年5月1日掲載)