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◎歴史継承の大切さ痛感 彦部家第三十一代、彦部晴直の人生はまさに波乱に富んだものでした。晴直の母は近衛関白政家の娘、政家の室は八代将軍義政の姫で、彦部家はここで血縁的にもさらに深く足利将軍家、近衛関白家と結び付きました。晴直は室町時代末期、三好の乱で殉死するまで、義稙、義澄、義晴、義輝の四代の将軍に仕え、要職に登用されました。 晴直は、幼名を又四郎といい、元服して十代将軍義稙より一字を賜り、稙直と改名、さらに十二代将軍義晴は「晴」の一字を与え、晴直と名乗らせました。晴直は新将軍に忠誠を尽くし、側近として活躍しました。例えば、後の武田信玄が天文五(一五三六)年、十五歳で元服した折、将軍義晴の一字を勝千代(信玄)に賜し与よすることを取り次ぎ、この仲介の労で黒馬一頭、兼元銘の刀一腰を贈られ、また、同十五(一五四六)年、次期義輝が元服し十三代将軍に就任した際、朝廷に対する幕府の御礼の使いを務め、正五位下に叙されております。 一方、彦部家には同十七(一五四八)年のものと思われる「仁田山紬(つむぎ)注文書」があります。これは朝廷へのご進物用に将軍家から晴直経由で桐生に発注したもので、十六世紀中期すでに桐生織物が隆盛していた証しであり、昭和三十八年に桐生市より重要文化財に指定されました。 天文十九(一五五〇)年、十二代将軍義晴の最期を病床から入棺までみとった晴直は、京都東山慈照寺(銀閣寺)に埋葬した折、万感の思いで「うつつとも夢ともいわん方ぞなき在りし御顔はそのままにして」と詠み、それ以降、さらに将軍家名代として禁中、社寺、諸大名へ奔走したといわれております。例えばこの年、関東に下向、相模の北条氏康、安房の里見義尭から馬、太刀、小袖ほかを返礼として贈られています。 そして、戦国時代もまさに下克上真っただ中の永禄八(一五六五)年五月十九日、倒幕の動乱「三好の乱」(松永久常、三好義継が十三代将軍義輝を殺害した事件)が勃発(ぼっぱつ)。晴直は長男、輝信とともに将軍を警護し、五十八歳で殉死しております。この事件は室町幕府にとっても、また彦部家にとっても、長年住み慣れた京都在住の終焉(しゅうえん)を意味する、まさに「歴史が動いた日」となりました。家系譜『高階朝臣(たかしなあそん)家譜』の晴直の項を読み下すと、次のように賛辞しています。 「晴直、性は文武に秀で、忠義を宗とし、四代に歴仕し、御覚え他を卓越し専ら登庸せらるる。鷹狩りの秘ひけつ訣を波多野氏に伝授して、頗(すこぶ)るその名を得、また和歌を好み、名吟多数あり。大事に臨んで、ついに君前に死して美名を千せんざい歳に伝う。名誉と言うべきなり」 以降、二男三十三代信勝が志を継ぎ、桐生に移住して四百五十年、彦部家の歴史文化は継承され、今日に至っております。今年は菩提寺「福厳寺」の春季彼岸の法要に、彦部家千三百年の象徴的な活躍をして死して名を残した晴直、輝信父子を弔い供養いたしました。幕府および彦部家擁護のため人生をかけて戦い、また桐生を永住の地と定めた先人の決断力、生命力、武士道精神に敬服するとともに、あらためて歴史継承の大切さを痛感しております。 (上毛新聞 2006年4月7日掲載) |