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◎意味したものに程遠い 明ぼのやしら魚しろきこと 一寸芭蕉 掲げた句は芭蕉俳句中、最高の作品の一つ、『野ざらし紀行』(一六八四年)に載せられた芭蕉四十一歳、桑名の浜に遊んだ折、得た句である。 まず「明ぼのや」で、読者はあの枕草子「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」の「あけぼの」を脳裏に思い浮かべるまでもなく、ようやく夜が明け始めてきた白々とした景にたちどころに包まれるであろう。東の空はみる間にほの赤く…。この妙なる美しさを芭蕉は「や」の切れ字をもって「明ぼの」を一句の宇宙観として次の「しら魚しろきこと一寸」の前にしかと提示したのである。 つまり、この一句のあり所を「明ぼの」と固定したといえよう。では、次の中七下五はどうであろう。一匹の白魚の透き通った美しい白い一寸。その一寸は白魚の命そのものなのである。共に桑名に遊んだという木因の記録に、この日「海上にあそぶ日は、手づから蛤(はまぐり)を拾ふて、白魚をすくふ。逍遥(しょうよう)舟にあまりて、地蔵堂に書しるス」とある。芭蕉は掬(すく)い上げた掌(てのひら)の中の幼い白魚をじっと見つめたことであろう。 一幅の墨絵にも似たこの句の本意は、一匹の命のかぎりを尽くしている一寸の白魚と、先の「明ぼの」の大空間の無限の不可思議との清冽(せいれつ)な二者衝撃の句といえる。だからこそ、その爆発力は大きく、命の重さ、貴さの印象詩として完成度が高いのだ。 ところで、俳句は海外でも興味をもたれ、東洋の神秘的な短詩形の一つとしてもてはやされて久しい。この有名な芭蕉の句も英訳したイギリス人がいた。俳人の長谷川櫂氏によると、彼は四十年も日本に住み、大の日本通といわれた人で、大学で英文学を教えながら次々と俳句を紹介する著書を出したという。 その先生の「白魚」の英訳がなんと「ナメクジウオ」。白魚とナメクジウオは似て非なるものであることは言うまでもない。白魚はシラウオ科の硬骨魚、体は半透明。春先、河口をさかのぼって産卵。日本各地に産し食用。一方、ナメクジウオはナメクジウオ科。体は透明桃色でウナギ形、昼は砂中に、夜は出てきて魚のように泳ぐ(『広辞苑』)とある。 さて、われわれ日本人は「白魚」と聞いただけで、あの小さくはかない魚に優美幽玄の情趣を重ねるには難しくない。ところが、墓は鎌倉と決めたほどの親日家でさえ、白魚をナメクジウオ(それも複数形)と訳してはばからないところに問題がありそうだ。いずれにせよ「一寸の白魚」という芭蕉が意味したものとは、程遠いものである。いかに欧米人が論理性をもって俳句に立ち向かい、翻訳したとしても、つくづく「東は東、西は西」と思わずにはいられない。 昨今、若い人たちと話をすると、これに似た違和感を覚えることしきりである。はたして海外に誇り得るこの句の風雅や美意識を同じ日本人として共有し、分かり合えているのだろうかと考えてしまう。 (上毛新聞 2006年3月29日掲載) |