視点 オピニオン21
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前橋工科大学情報工学科講師 松本 浩樹さん吉井町下長根)

【略歴】千葉工業大卒。85年沖電気工業入社、音声処理関連研究開発に従事。3年間、前橋工科大設立準備委員を務め、97年から現職。北関東IT推進協議会委員。

マルチメディアの幻想


◎便利な道具だが危険も

宮沢賢治の『春と修羅』は、「私という現象は有機交流電灯のひとつの青い照明です」で始まる。この文のポイントは「私」を「現象」、そして「現象」を「ひとつの照明」ととらえている点にある。今回は、この題材の謎解きをしながら、現実世界に生きるわれわれのマルチメディア世界に対する幻想について、述べることとしたい。
 一般に「私という」に続く言葉は「存在」であろう。「存在」という言葉は「物質」を連想させる。この考えに立てば、「人間の世界」すなわち「現実世界」は「物の世界」ととらえられる。一方、賢治は「私」を「現象」としている。「現象」は、「情報現象」「エネルギー現象」「物理現象」などの総称である。彼は「現実世界」を「情報」「エネルギー」「物」すべてが織りなす世界としてとらえており、単純に「物の世界」とは考えていないようだ。小生もこの考えに賛成だ。
 では、人間が創(つく)り出したマルチメディア世界は、いかなる世界であろうか。卑近な例で考えてみよう。まず、テレビ電話で娘をしかる父親がいるとしよう。怒り顔と声は伝達されるが、げんこつが飛んでくることはない。それに対し、現実世界では良いか悪いかは別にして、その可能性はある。げんこつが「エネルギー」であり「物質」であることを考えれば、マルチメディア世界は音声や映像という「情報」だけが介在する世界だ。
 この世界を介した叱咤(しった)の場合、現実世界でしかられた経験のある娘とそうでない娘とでは、それに対する現実感が全く違ってくる。経験のある娘は「情報」と体験を統合して、叱咤を現実のものとしてとらえることができる。経験のない娘には、それができない。体験なしには、心も育たないのだ。この例からも分かるようにマルチメディアが万能のように感じるのは、現代人の幻想だ。マルチメディアは、あくまで現実の体験を伴って価値を生む便利な道具なのだ。
 このコーナーを執筆するようになってから、たくさんの電子メールやお手紙をいただく。そのなかで、一番多いのは「マルチメディアは本当に良いことずくめなの?」という質問だ。先に述べたことが、その解答の一つだ。もう一つの解答は「現象はひとつの照明」の中にヒントがある。「照明」があれば「情報現象」にも「影」ができる。人々がマルチメディアに興味を示す限り、すなわち「照明」をつける限り、必ず「影」はできる。この世界は、ネット犯罪をはじめとして危険がいっぱいだ。
 では、現実世界には「影」はないのだろうか。当然ある。だからといって、その影を恐れてばかりいるだろうか? 否。皆、この世界で危険への分別を持って生きている。皆さんもマルチメディアを恐れずに、この便利な道具を使って豊かな人生を築こうではありませんか。現実の体験と危険への分別に注意を払いながら。

(上毛新聞 2006年3月23日掲載)