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◎精神の充実をはかる場 エドワード・サイデンステッカー氏と日比谷の喫茶店でお話しした時のことです。お会いしてすぐに、「あなたは、源氏物語を何度通読しましたか」と問われました。予期していないことでしたので、とっさに「三度です」と答えました。するとサイデンステッカー氏は、眼光鋭くしばらくわたしを見つめてから、「私は六回読みました」と言われました。 「あなたは何歳ごろ、源氏物語を手にしましたか」「小学校六年生のころですから、十二歳前後のことです。いとこの本棚にあったものですから」「それは幸せなことですね。私は大学の寮で、オルダス・ハクスリーの息子と隣り合わせの部屋になったことがきっかけでした。そのころは田舎から出てきたばかりなので、ハクスリーが現代作家であることを知りませんでした。たまたま新作の『あまたの夏を過ぎて』を読みました。その中で紫式部に触れているところがあって、はじめて知ったのです」と、ゆっくりとした口調で話してくださいました。 このサイデンステッカー氏の質問を通して、現代の源氏物語ブームへの警鐘を聞く思いがしました。誰でもが手軽に古典を手にすることができるようになりましたが、時間をかけて古典語と格闘しながら読む人は少なく、また、十一世紀に書かれた源氏物語が、時空を超えて現代人が読めることは、世界的に希有(けう)な文化現象だということを、あらためて教えられたと思いました。 古典を読むという行為は一般的ではありません。古典はいまだに学校教育や受験の世界に存在しているように、考えている人が多いと思います。ですから「古典はとっつきにくい」「難しい」「古典を知るより、もっと切実な課題がある」などと、古典と向き合う気持ちは遠いと感じている人が少なくありません。しかし、現代の世相を反映してか、物より心を、精神生活を高め充実したいという欲求があることも忘れてはならないと考えます。 このことを裏づけるように、ここ数年開いている土屋文明記念文学館の古典講座に申し込む人が多く、参加者は抽選によって決めていると関係者の方から聞いております。いかに内面の充実を求める人が多いかが分かります。 古典を理解するには時間と知的努力が必要であることは当然です。その上に古典と現代の生活空間との接点をどのようにもつかという問題意識も大切なことです。私は古典を理解する手助けをと三十年間、源氏物語を生活者とともに読んできました。今も読み続けられるのは、世界的な希有な文化現象にかかわる自負もさることながら、現実をとらえる視点として、古典をしっかりとつかむことを基本にしてきたからだと思っています。 古典の講座は教室の授業の再現ではないのです。生活者が人生のゴールをどうとらえるか、古典と向き合い、いわば精神の充実をはかる場です。その場をより一層充実させたいと思います。 (上毛新聞 2006年2月19日掲載) |