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◎描いた場所に標柱を 妙義山は九州の耶馬(やば)渓、四国の寒かん霞か渓とともに日本三大奇勝の一つとして知られ、古くから多くの文人墨客が訪れている。当美術館を設立した目的の一つに妙義を描いた画家の足跡調査がある。 葛飾北斎、狩野芳崖(ほうがい)、川合玉堂、池大雅、谷文晁(ぶんちょう)、奥田元宋、小島善太郎、中村不折、青木繁、福田たね、坂本繁二郎。そのほか、世界的にも知られる多くの先達が妙義を描いてきた。 葛飾北斎は、奇岩の上から旅人が俯瞰(ふかん)の構図で妙義神社を眺めた作品を、狩野芳崖は死去の五日前まで描き続けた「悲母観音」で画面左下に第一石門を、谷文晁は郷原から「妙義遠景」を、青木繁は二十一歳、川合玉堂は三十二歳の時に当館広場近くより妙義を描いた。小島善太郎は妙義神社近くに宿をとり、一畳ほどの大作を担いで岩場を登り、第四石門近くで約一カ月かけて「日暮の景」を描いた。 歴史に残る偉大な足跡は人生の道標だ。五里霧中の逼塞(ひっそく)の世界に迷い込んだ時、先達が時代のうねりの中で信念を貫き描いた作品からは、沈黙の教えと見識の泉がわき出てくる。 その一人が奥田元宋先生である。先生は一九一二年生まれ。日本芸術院会員、文化勲章受章画家で、宮中歌会始の召人(めしうど)も務め、銀閣寺襖絵(ふすまえ)を描いた日本画壇の巨匠である。妙義山や谷川岳などを題材に数多くの名作を世に残し、県立近代美術館には大作「妙義」が寄贈されている。 平成五年二月、東京の先生宅を初めて訪問した時のことである。水打ちされた玄関から、お手伝いさんに応接室に案内されると、マリー・ローランサンと池大雅の作品が飾られていた。窓辺に目を移すと早春を思わせるかれんな花。福寿草のひと鉢が、私のはやる気持ちを落ち着かせてくれた。 時あたかも県立近代美術館で開催中のローランサン展が話題を集めていた時期である。池大雅は、四十三歳の時に日本十二景図で妙義を描いた。福寿草は松井田町の天然記念物で、木馬瀬(ちませ)地区に群生している。後に、福寿草の鉢は、この日のために先生が庭から植え替えたと知った。私が鉢のことをお手伝いさんに尋ねなければ永遠に分からなかったことだ。 無駄を略し、多くを語らずの精神は、重厚な赤を中心に奇岩を描き、寂々寥々(りょうりょう)たる風景を幽玄の世界へといざない、日本古来の伝統的文化を表現された。生涯、心の鑑(かがみ)として尊敬した先生との出会いの時は、温厚な人柄と一期一会の精神に接した日でもあった。 きょう二月十五日は先生の三回目の命日である。先生をご案内した妙義湖畔の風景は今も脳裏から離れず、常に畏敬(いけい)の念を感じている。誰にでも平等に接し、群馬の自然を愛した先生をしのび、心より哀悼の意を捧(ささ)げたい。先生をはじめ多くの先達が描いた妙義山の作品をより多く把握し、描いた場所を特定し、できることなら標柱を立てて後世に伝承してゆくことが、われわれ芸術に携わる者の責務であると考えている。 (上毛新聞 2006年2月15日掲載) |