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高崎経済大学非常勤講師 吉永 哲郎さん(高崎市竜見町)

【略歴】国学院大文学部卒。高崎経済大、前橋国際大の非常勤講師。源氏物語を読む「蘇芳(すおう)の会」主宰。

仏から富岡製糸場へ


◎忘れないで無名の工女

 南フランスのヴァランスから約二十キロ離れたブール・ド・ペアージュという町があります。ポール・ブリュナの生まれ故郷です。NHKの「明治一〇〇年」の特別企画でブリュナの業績が取り上げられた時、関係者が詳細な調査をされ、ブリュナの生まれ故郷が初めてこの企画で紹介されました。

 一九八三年八月のことですが、日仏教育学会からフランス国内の教育事情視察と資料収集のため派遣された時、この小さな田舎町の駅を降り、イーゼル川を渡ってブール・ド・ペアージュの町役場を訪れました。

 このイーゼル川の上流には冬季オリンピックが開催されたグルノーブルやアルベールビルがあります。受付の女性から「この町役場に同じ人を探しに来られた日本人は二度目よ、ムッシュ」と、にこっとされました。すでにNHKの取材があったので資料は丁寧に整理されていて、ブリュナにかかわる分厚い戸籍簿のつづりをすぐに見せてくれました。日本でいえば、江戸時代からこの辺りに住んでいる人の戸籍が、すぐ分かるように整理されているのには驚きました。

 さて、この小さな町を訪れた目的は、ブリュナが富岡製糸場設立のためにフランスから連れて来た四人のお雇い女工師たち(当時二十二歳のウィルフォール・クロラント、二十七歳のルイス・モニエル、十九歳のマリー・シャレー、二十五歳のアレキサンドリーヌ・ヴァラン)の生まれ故郷や、彼女たちの人生についての手掛かりを得るためでした。ここでは四人にかかわる情報は得ることはできませんでした。

 次にリヨン市にある織物博物館を訪れ、司書長のマダム・ジョイにお会いし、調査の目的をお話ししたところ、「この四人のことが分かれば、日本との懸け橋、それも虹の懸け橋になるわね」と、調査を約束してくださいました。五年後、再度、博物館を訪れました。司書長マダム・ジョイは再会を喜んではくれましたが、四人のことに関して手掛かりがないことを、つらそうに話してくれました。

 私がこの四人の工女を今も追い求めているのは、日本の近代化のために、故郷を遠く離れ、悲しく苦労の多かった無名の工女たちの姿を、忘れてはならないと思うからです。そのためにも和田英の『富岡日記』を読むことではないでしょうか。日本人からミカンをもらっただけで謹慎処分を受けたり、貫前神社へ参詣しても鳥居から内陣へは入ることが許されなかったり、日本人とその文化との接触を極端に禁じられていた生活であったことが思われます。

 製糸場の建物は残りましたが、その空間に生きていた人の姿は、このフランス人工女の四人が分からないように、目にすることはできません。せめて、彼女たちの墓を探し、一輪の深紅のバラの花を供えたいと思うのです。それまで彼女たちを求めて旅を続けたい。たとえ「虹の懸け橋」は遠くとも。

(上毛新聞 2006年1月8日掲載)