視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎残っているもの大切に 今年の七月上旬、万座温泉に一泊し、翌日、信濃路に遊んだ。以前から行きたいと思っていた小布施に出かけることが目的でもあった。小さいころから、この隣の県を「信州」と呼び、「教育県」と教えられ、一種のあこがれを抱いていた。 小学生のころだから、もう五十年も前になるだろう。高崎駅で信越線の汽車に乗り換え、初めて信州・長瀬(現在の丸子町)の伯母宅を訪れた。旅慣れた? 母親たちに連れられて行ったのだが、信越線に乗り換えたはずが、再び上越線で逆戻り。その時の母親たちの慌てぶりを今でも覚えている。「大人もだらしないな」と子供心に思ったかどうかは定かでない。昔はこんなことがしばしばあったらしい。電話も今のように普及していないころだったので、どのように連絡をとったのだろうか。伯母に一度聞いてみたいと思っている。 伯母宅は長い一本道の坂を上がった小高い所にあった。坂下の方を振り返って見ると景色は広く広がり、その家に隣接した斜面には、大きなクルミの木が何本もあった。 万座のホテルに向かう途中、嬬恋村鎌原にある嬬恋郷土資料館を訪れ、館長の松島栄治先生にお会いした。そこは、天明三年、浅間山の噴火により埋没した地域で、「日本のポンペイ」と呼ばれている所である。先生のご厚意で長時間お話を伺うことができ、縄文時代の文化の高さに感動し、江戸時代の嬬恋の繁栄ぶりを知った。 そして、それぞれ「精神的な豊かさ」の一端を感じた。精神的な豊かさ、これが文化をはぐくむのだと思う。辞去するとき、「シナノキの皮で織物を作っているので、見ていきませんか」と案内された。シナノキが多いところから、「しなの」(信濃)というのだそうだ。大変な時間をかけて、見事な織物を作られていた。 それにしても、長野県は「しな」のつく場所が多い。作家の司馬遼太郎氏も次のように言っている。 信濃には科しな(級)のつく地名が実に多い。埴科、更級(さらしな)、蓼科、立科、穂科、倉科といったぐあいで、信濃という国も『日本書紀』斎明紀六年の記述に「科野国(しなののくに)」という文字を当てている。科とは何を意味するかは定説がないらしい。本居宣長は『古事記伝』において、この科は信州に多く自生している樹木であるとした。…山と山の間に「平(たいら)」と呼ばれる大小いくつもの野がある。…段階的な平面の形態をシナと言い、全体をシナノと呼ぶようになった…(『街道をゆく』信州佐久平みち) 見回してみると、われわれの周囲には、興味の尽きないことが多い。これをたどると文化の意味を垣間見ることができるのかもしれない。どの国においても、その地固有の風土から文化は生まれ、精神活動の結果が文化である。今は、変革の時代だが、そんな時代の中にあっても残っているものを大切にしていきたい。それが、豊かで潤いのある生活につながるのだと思う。 (上毛新聞 2005年12月27日掲載) |