視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
野本クリニック院長 野本 文幸さん(前橋市城東町)

【略歴】前橋高、北海道大医学部卒。NPO法人波宜亭倶楽部理事長、前橋市まちづくりにぎわい再生計画プロジェクトチームグランドデザイングループ座長。

桐生明治館


◎前橋に移築できないか

 来年は萩原朔太郎生誕百二十年に当たる。例えば、朔太郎が通った幼稚園がそのまま残っていたら、朔太郎ゆかりの建物としてだけでなく、建物の古さとしても十分に歴史的価値があり、必ずや前橋の貴重な財産・観光名所の一つになったことだろう。

 朔太郎は群馬県師範学校(現・群馬大学教育学部)付属幼稚園に通ったのだが、その幼稚園校舎は現在は残されていない―。多くの人と同様、私もそう考えていた。しかし、調べてみたところ、現存していることが分かった。

 朔太郎が通った幼稚園の記述は、いとこ・萩原栄次の書簡にある。栄次が前橋中学校に通うために大阪から前橋に来た明治二十五年、朔太郎が幼稚園に入園した。「朔太郎君が始めて幼稚園に通ひだす頃(ころ)=県庁前の幼稚園、後の物産陳列所、其その頃前橋ではめづらしい白ペンキ塗の洋館でした」(原文のまま。萩原隆『若き日の萩原朔太郎』)。また、明治二十四年の保岡申之『前橋繁昌記』に、附属小学校は「県庁の角にあり元の県立病院なり」とある。

 さらに『前橋市史第四巻』の「附属小学校沿革」では、付属小学校は明治二十年に旧県立女学校跡に移転、翌年四月に幼稚科設置、同二十七年三月に幼稚科廃止、同年四月に新築落成した師範学校内(今の市役所から合同庁舎あたり)に移転している。

 県庁前、白ペンキ塗りの洋館、元の県立病院、旧県立女学校、後に物産陳列所。この五つ、すべての条件を満たす建物、それは現在の「桐生明治館」である。同館は明治十年に、衛生所兼医学校として今の群馬会館あたりに建てられた。衛生所兼医学校は付属病院(県立病院)、県立女学校、師範学校付属小学校、群馬県物産陳列館と変わり、昭和三年、相生村(現・桐生市)に移築された(『旧群馬県衛生所保存修理工事報告書』昭和六十一年)。

 以上のことから、明治二十五年に幼稚園に入園した朔太郎は、同年(幼稚園)と翌年(小学校一年)には今の桐生明治館の建物で遊び、学んだ、ということになる。

 衛生所兼医学校は朔太郎との関連だけでなく、前橋市にとっても重要な意味を持つ建物だった。明治九年に県庁を前橋に誘致するときの条件の一つが、衛生所兼医学校の建設だったのである。もし、衛生所兼医学校が建たず、前橋に県庁が決まらなかったとしたら、その後の前橋の発展はなかっただろう。その意味で、衛生所兼医学校は現在の県都前橋の礎の一つの象徴である。

 昔も今も、前橋は市にとって貴重なものを大切にしてこなかったように思われる。桐生明治館は桐生に移築後には桐生の歴史を刻んできており、桐生にとって重要な建物になっているだろう。それを承知の上で、また、いまさらお願いできることではないのかもしれないが、桐生にお願いして、桐生明治館を前橋に再移築する道はないのだろうか。

(上毛新聞 2005年12月17日掲載)