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◎もう一度読み直す時 短い夏のフランス体験から三十数年の月日が過ぎ、あれ以来、ポー市の夕刻の身動きができず、凍りついたような「孤独」感を味わったことがない。『嘔吐(おうと)』の主人公ロカンタンではないが、冷めた法悦に浸っていた。あのぬっぺりとしたもの、吐き気のようなものはイマジネーションでもない。観念とか情念とかでもない。僕の存在することの皺(しわ)のような全感覚の膨らみのような自然との〈そこに在る〉存在である。「存在することは、ただ単に〈そこにある〉ということである」「存在するものが現われ〈出会う〉ままになる」(訳・白井浩司) サルトルは『嘔吐』によって、実存のビジョンを創り出し、人間とは何かを問い続けた作家であり、哲学者であり、戯曲、評伝、政治論、文学論も書いた。量的にも質的にも多才さと、その幅の広さがあり、あふれるような仕事をした。その仕事は、一貫性よりも、変化と発見にあり、知の巨人である(『サルトル全集』三十七巻・人文書院)。 いま、サルトルが何故問題なのか、読まれるようになったのか。生誕百年という区切りの意味だけではない。時代性の反映をもっともよく発言したからではないだろうか。サルトルの仕事の背後には生身のサルトルの息遣いがあり、読者は情念をゆさぶられるのだ。「人間の本性とは、すべて社会的に、歴史的に構成されたものにすぎない」と看破し、「アンガジュマン」〈社会参加〉や「シチュアシオン」〈状況〉の思想を創つくり出し、実践したからサルトルは甦(よみがえ)ったのだろうか? カミュの『異邦人』と『嘔吐』を読み比べると、時代の状況のとらえ方が違う。カミュにとって現実は、ただそれに対して反抗するために存在する。『異邦人』の主人公ムルソーは殺人を犯すが、それは太陽のせいだと答え不条理で終わる。一方、ロカンタンは小市民的な生活者で、「侯爵ド・ロルボン」の言行を歴史的に研究している。単調な繰り返しの裏ですさまじい緊張や飛躍のエネルギーを、危機や破局を秘めている。 サルトルにとって現実は、ただそれを変革するために存在する。アンガジュマンの思想は状況を積極的に自分に引き受けていくことにある。その認識は、時代の精神的潮流にまともに向き合っている。現在置かれている状況の中で、いかに生きるかを問い続けるからだろう。サルトルの生身の声が作品から現れてくるから甦るのだろうか? 晩年のサルトルは「人間は人間の未来である」(同時代の詩人ド・ポンジュの一句)を何回も引用している。 サルトル生誕百年。イラクやパレスチナ、ルワンダで戦争と虐殺が今も続いている二十一世紀。時代に(参加)を身に持って呼びかけたサルトルの「人間」とは何かの出発点が『嘔吐』にある。サルトルの思想の可能性を僕らは、もう一度読み直すべき時であろうか? カミュの『反抗的人間』や、切実な人間の条件を追求した『ペスト』『正義の人びと』が再読され、甦る時にもきているだろう。 (上毛新聞 2005年11月12日掲載) |