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◎継承しよう教育的精神 いま進められている教育改革は、明治、戦後に次ぐ三度目の国家的な規模のものである。二度の改革が欧米諸国などにモデルを求め、量的制度的発展の上に対処方法が考えられたのに対し、今度の改革はどこにもモデルを求めることができない上に、少子化時代を迎え、学校の意味や価値が問われているところに、その特色がある。 一九九〇年代に流布した二つの言葉「新しい学力観」「横断的総合的な学習」には、知識の伝達・偏差値重視の学習による閉へい塞そくを打開することを求めて、学びのパラダイムの転換を目指そうという期待が込められていた。わが国の近代教育を振り返るとき、二つの言葉の源は、知識伝達的・定型的授業の改造を求めた大正新教育運動にさかのぼる。その中心には沢柳政太郎が存在し、現在の教育改革は沢柳が指導した大正新教育運動を歴史的教訓に、その中にこそ、教育における「自己打開力」を求めるべきであると考えられる。 沢柳政太郎(一八六五―一九二七年)は長野県人であるが、本県に関係の深い教育者であった。東京帝国大学を卒業し文部省に入り、いったん退職して、京都の私立大谷尋常中学校長を経て群馬県尋常中学校長となった。その後、第二高等学校長・第一高等学校長から文部省普通学務局長・同次官を歴任し、退職後は貴族院議員の傍ら東北帝国大学初代総長・京都帝国大学総長を務めた。 同総長を最後に官界を去り、成城小学校を創設し、大正新教育運動の指導的役割を担った。沢柳は文部官僚として国家主義的公教育の原型をつくりながら、新教育運動を指導した異色の教育者であった。日本の近代教育には国家統制の画一的な教育と、それに対する反省から児童生徒の個性・自立性・創造の尊重を重視する二つの水脈がある。沢柳は二つの流れにかかわった唯一の教育者であった。 沢柳は三十歳で県当局や県会の期待を担って、群馬県尋常中学校長に迎えられた。同校(前橋高)は明治十二年の発足以来、運営が困難を極め、全国屈指の難治校と呼ばれた。沢柳は校風刷新を行うとともに、同三十年に同校の分校として、群馬(高崎高)・多野(藤岡高)・利根(沼田高)・新田(太田高)・甘楽(富岡高)・碓氷の六分校を設置した。その結果、群馬の県立学校教育は二十世紀初頭に今日的基盤が確立した。 沢柳を県立学校教育の生みの親とする本県は、平成の教育改革で先進的な教育立県を実現する歴史的使命があると思う。沢柳は「教育とは真実を行うことなんだよ。真実とは、誰ともどんな場合でも、駆け引きを行わないこと。だからこれからは本当の仕事をするんだ」と成城小学校をつくり、当時の自由主義教育の中でいろいろな主義やイデオロギーが唱えられたが、イズムや主義でなく、「生き生きとした精神」から児童生徒を教育すべきであると説いた。沢柳の実践と精神を継承すべきではないかと思う。 (上毛新聞 2005年10月20日掲載) |