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フリージャーナリスト 立木 寛子さん(東京都江東区)

【略歴】前橋市生まれ。新聞記者を経て84年からフリー。医療関連分野を中心に取材執筆。著書に「沈黙のかなたから」「ドキュメント看護婦不足」などがある。

がん患者と生きがい


◎闘病つづり命永らえる

 「がんが肺に転移したときは数カ月の命と思われたのが、五年も頑張ってくれました。妻の命を支えていたのは、自分にできることを精いっぱいやる、という強い意思だったと思います」

 こう話すのは、九月に妻の朱実さん(54)を亡くした吉井町の会社員、木野内恒夫さん(59)だ。

 十二年前、朱実さんが四十二歳のときに乳がんが見つかった。エレクトーンの先生として充実した毎日を送っているときだった。

 乳房を残す乳房温存術を選択、手術は成功した。ところが、「もう大丈夫」と思っていた五年半後、肺への転移が見つかった。手術に臨んだものの、すでに手の施しようがない状態。そのまま、開けた胸は閉じられた。「このとき、残された時間をはっきり感じたようでした」と恒夫さん。

 その直後、国立高崎病院(現国立病院機構高崎病院)で乳がんの手術を受けた人たちが中心の患者会「笑みの会」に入会、運営委員の一人として活動を始めた。

 同会は、いつも笑顔で楽しい人生が送れるように、という趣旨のもと、会員(現七十四人)が定期セミナーや親睦(しんぼく)旅行などを通して交流を深めている。治療方法や術前術後の体験などの情報交換の場としても機能し、会の代表顧問には、同病院の石田常博院長が当たっている。

 「やるなら積極的にかかわりたい」という朱実さんの活動への取り組みは徹底していた。なかでも力を入れていたのが、同会の機関紙「エミオ」(季刊・A4判カラー四ページ)の編集だった。

 会員や石田院長をはじめとする医療関係者への寄稿依頼や原稿回収、編集、印刷所への手配などはもちろん、自分自身、エッセーを連載した。がんは肺だけでなく、咽頭(いんとう)、脳にも転移。そのたびに「知らないことがあって、あとで後悔するのは嫌」と、主治医に詳しい病状の説明を求める一方で自身も勉強を欠かさなかった。エッセーは、そんな闘病の様子を余すところなく書きつづったもので、前向きで明るさを忘れない朱実さんに多くの人が励まされた。

 「機関紙の編集は朱実さんにとって大きな支えだったと思います。特に、連載エッセーは生活の中心で、原稿を書くために頑張っている、といった感じでした。誰かの役に立つよう自分の体験をありのままに伝えたい、それが自分の役目であり、生かされている意味、と言っていました。生きがいだったと思います」と、「笑みの会」会長で共に病気と闘ってきた國末ユキエさん(52)は振り返る。

 亡くなる前日、朱実さんの病室に乳がんの手術を終えたばかりの人が入室してきた。病床でその様子を見た朱実さんは、付き添っていた恒夫さんに言った。「あの人に『エミオ』を一部あげて。不安に思っているはずだから助けになるかもしれない」

 最後の最後まで他への気遣いを忘れなかった朱実さん。「エミオ」十二月一日号は、「木野内朱実さん追悼」号になる予定だ。

(上毛新聞 2005年10月17日掲載)