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◎根底に批評持つ指導を 先日の朝日新聞の投稿欄に、「読書嫌いを作る読書感想文の宿題」という趣旨の文章が載っていた。「読書の秋」になると、このごろは決まってこの種のことが話題になるが、「読書嫌い」は本当に夏休みの宿題として強制的に書かせられる読書感想文によって作られているのであろうか。 確かに、僕の授業を取っている大学生たちに聞くと、多くの学生が読書感想文を書くのは本当につらかった、感想文を書かせられるので読書を楽しめなかった、といったたぐいの感想を語ってくれ、読書感想文を書くことが「読書」にとって障害となっていることが分かる。 もちろん、読書感想文コンクールに応募するための読書がきっかけで読書好きになったという感想を持つ学生もいないわけではない。しかし、多くの若者(学生)が読書感想文を書かせられていたがトラウマ(心的外傷)になっていて、長い間、本=小説を読むことから遠ざかってしまったということがあるのも、厳然たる事実である。 何故このようなことが生じているのか。一つには、情報化社会の進展に伴い相対的に読書が、情報獲得の手段としてその地位を下落させたということがある。つまり、かつては国内外の情報を得る最も手っ取り早い方法は「読書」であったが、テレビやビデオ、DVDといった映像文化やインターネットの発達によって、本を読まなくてもさまざまな情報がたやすく手に入る時代になってきたために、読書に頼らなくても「知」的欲求を満足させられるということである。 もう一つには、そのような時代に即応した読書指導の方法が十分に確立されておらず、優れた指導者も少ない、ということがある。 小中高の読書指導は、おそらく「国語」の時間に担任の教師か国語教師が行っているのだろうが、教育学部で非常勤講師をしていた経験からいうと、最近の教育学部生(将来の指導者)は他の学部の学生と同様に、あまり本を読まない。また、多忙だから仕方がないのかもしれないが、書店の外商部の人に聞くと、最近の学校教師ほど本を読まない人はいないのではないか、と言う。本を読まない指導者に「読書指導」ができるのか。 本を読むという行為は、対象を的確に理解すると同時に、おのれの内部を絶えず点検することでもある。「感想」というのも、その行為から生まれる表現=思想(考え方)である。換言すれば、「感想」の根っこには「批評」があるということになるが、この見せかけの「豊かさ」と「平和」に満ちた社会に対して何の批評も持たない(ように、僕には思える)多くの教師たちに、批評を根底に持つ読書の指導を望むのは、どだい無理な話なのだろうか。 その意味では、読書嫌いを作っているのは、実は読書感想文の宿題ではなく指導者(教師)なのだということを、あらためて考えなくてはいけないのかもしれない。 (上毛新聞 2005年9月24日掲載) |