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◎言動の本質を見抜こう 「リテラシー」という言葉は、今日ではコンピューター・リテラシー、メディア・リテラシー、ケータイ・リテラシーなどというように、新しい情報機器の普及とともにますます広範なIT機器にも用いられるようになった。 このリテラシーという用語は、もともと私たちが生活していく上で最低限必要な読み書きなどの能力を意味していた。わが国でも「読み書きそろばん」ができることが、そうであった時代があった。 しかし、多様なメディアの出現やIT機器の普及により、さまざまな事件や犯罪などが頻出していることから、このリテラシーには、単に「その道具(文字や機器)を使える能力」ということを超えて、新たな意味が付加されてきた。例えば、「メディア・リテラシー」は一九八〇年代のイギリスやカナダの初等学校における、特にテレビ映像の理解を中心とするメディア教育の在り方に関する教育に端を発している。 そのため、テレビが報道する映像は、ある出来事の全体の一部を記者やカメラマン、デスク(編集者)などがメディア側の一定の立場や価値観に基づいて「切り取った部分」であるし、メディアが「報道内容を再構成したもの」であって、決して「事実そのもの」ではないことから、あらゆる報道の内容について批判的に理解することが重要であるという意味が込められている。 もちろん、こうした報道のプロセスはテレビだけでなく、新聞やラジオなどのあらゆる報道に共通するものであるが、実は私たち自身が何かを他者に伝えようとするその瞬間にも、メディアと同じことを行っているのである。以前にも本欄で触れたことでもあるが、誰かが「赤城山はとてもすそ野が長い山」と表現したとき、それは、その人なりの「情報の切り取り」を行い、編集した結果なのである。 従って、私たちのあらゆる「情報」のやりとりは、それを発信する人や組織の固有の価値観をとおして「再構成」されざるを得ないし、さらにはそうした情報を受信者の側が「勝手」に意味づけせざるを得ないという二重三重の変換システムをその本質としているのである。 であるからこそ、昔からすり寄る他者の言動に対しては「猫なで声に気をつけよ」とか、「巧言令色鮮すくなし仁」とされている。これは「正しい情報リテラシー」を身につけるための手っ取り早い方法を言い当てているのである。今、衆院選が行われているが、私たちに問われているのは、政治家の言動の本質を見抜く「政治家リテラシー」なのではないだろうか。 (上毛新聞 2005年9月7日掲載) |