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◎評価の頼み難さを思う サルトルは、二十世紀を代表する文学者・思想家だった。僕がサルトルを読んだのは十代から二十代にかけて。毎日のようにサルトル、と同時にカミュだった。サルトルの『存在と無』に明け暮れ、精いっぱい背伸びした。高校時代に少しませた友人がいた。彼はサルトルの『自由への道』や『悪魔と神』『実存主義とは何か』や、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』をまくし立て、私小説に熱中していた僕たちを時代遅れ扱いにしたものだ。 僕は、サルトルやカミュに夢中になって飛びついた。『嘔おう吐と』をむさぼるように読み、『壁』『水いらず』『自由への道』を読み、実存主義かぶれになり=実存は本質に先立つのだ=と、唱えながら深刻ぶった。ビュフェの絵やジュリエット・グレコ、ダミア、イヴ・モンタン、レオ・フェレのシャンソンに酔った。時代の気分的な実存主義者を気取ったものだ。あれから五十年もの時が流れている。 二○〇五年はサルトル生誕百年にあたり、フランスでは、国立図書館で前例がない大規模な「サルトル展」が開かれて、サルトルの再評価が起こっているとのことである。日本でも大きな書店では「サルトル」コーナーができている。サルトルが甦よみがえったのだ。 朝日新聞に「忘れられたカミュの墓―終しゅうえん焉の地 求めた南仏、頼み難い人の運命」と題してイタリア・フランス文学者の大久保昭男氏が書いていた。サルトルとカミュの時代を共有した僕たちには寂しいような記事が目に入った。少し長いが引用したい。 ◇ ―カミュの墓は容易に見当たらず(中略)麗々しい他人の墓の蔭かげに身を潜めるようにうずくまっている小さな墓石であった。幅七十センチ、縦五十センチほどの平たい墓石で、その表にはただALBERTCAMUS 1913―1960とだけ刻まれている。しかも長年の風雨に晒さらされて、その文字ももはや定かでない。墓石を囲むラヴェンダーの茂みがせめてもの救いであった。 戦後文学の寵児(ちょうじ)であり、ノーベル賞に輝いた作家の墓としては、質素というよりあまりにも粗末と見えた。パリも目抜き、モンパルナスの墓地に立つサルトルの墓と較くらべてもあまりに貧しくないか。だが、傍らのフランスの友人の理解は違った。カミュの生い立ちと生きざまを知る者ならこの質素さに驚くことはない、サルトルの墓こそその信条にそぐわぬモンダーン(世俗的)ではないかと彼は言い、カミュのために祈るといって墓石前で十字を切った。それにしても、そのカミュの墓に詣でる人の絶えてないと見えるものは何故なのか。日本風に言うなら無縁仏さながらである。 ◇ 大久保氏の感慨ではないが、人の運命、作家の人気・評価の頼み難さを思わざるを得ない。カミュがサルトルのように、再び甦える時を待とう。当時のサルトル・カミュ論争は苦渋に満ちた知識人に希望を与えた。 (上毛新聞 2005年8月28日掲載) |