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独立行政法人国立美術館運営委員 黒田 亮子さん(伊勢崎市連取町)

【略歴】東京大大学院修了。県立近代美術館、県立館林美術館に専門職として約30年勤務。現在、独立行政法人国立美術館運営委員。

美術館が遠く感じたら


◎楽しもう生活の中の美

 私が美術館で仕事を始めた一九七〇年代の半ばには、まだ日本には本格的な美術館は数えるほどしかなく、社会的認知度も低かった。その後、日本の経済成長に合わせるように各地に次々と誕生して、今、私たちの周辺にはおびただしい数の美術館がある。どこにでもある特別なものでなくなったという事実は、美術館に関するさまざまな議論を超えて大きな成果といえるが、数が増えた分だけ問題も多くなり、観覧者の減少と運営経費の削減から事業を縮小したり、閉館を余儀なくさせられる美術館も出てきた。

 ときに美術館切り捨て論まで聞こえてくる。しかし、人々が美術館を必要としなくなったわけではないし、美術を愛好する人々が減少したということでもない。熱心な美術愛好者は増えているし、美術館の外では生活の身近なところで、広い意味では美術ともいえる魅力的な活動がさまざまな形で展開されている。

 今年五月からの三カ月ほどの間に、私はこうした活動の幾つかを楽しんだ。まず五月のはじめ、月遅れの雛ひな祭りに招待された。通常の雛飾りを思い浮かべて訪ねた私は、うれしい裏切りにあった。玄関から始まってどの部屋にも享保雛から押し雛、染め雛、絵雛、素朴な遠野地方の土雛など、時代も種類もさまざまな二十組ほどの雛人形が、季節の花々とともに一組ずつ彩りも空間も抜き差しならぬほど見事なしつらえで飾られていたのである。年月をかけて一点ずつ丹念にこれらを集めた人の繊細な美意識とともに、そこには一度は主を失った雛たちの、再び愛めでられる喜びがあふれていた。

 また、六月の半ば、館林市の花菖蒲(しょうぶ)鑑賞会を訪れた。旧藩主の別邸の一室に床の間を挟んで左右に金屏風(びょうぶ)が立てられ、丈をそろえた花菖蒲が紫と白と交互に据えられ、江戸時代に武家の間でたしなまれた典雅な作法にのっとって鑑賞する。途絶えた伝統をよみがえらせる苦労をみじんも見せずに温かく鑑賞者を迎える運営グループのもてなし心にも助けられて、そこではいつもと違う潤いのある時がゆるやかに流れていた。

 そして七月の初め、私の住む伊勢崎の町中で、炎天下の中を商店街の空き地に花を植えている十五、六人の女性グループに出会った。しばらく前から町中のあちこちの空き地に草花が植えられ、ともすればわびしくなる空間が花の絨毯(じゅうたん)になって町に彩りを与えていたのだが、それはこうした人々の花作戦の努力の成果だったのだと初めて気がついた。生き生きと立ち働くメンバーの様子からは街をキャンバスに大きな絵を描く喜びが伝わってくるようだった。こうした活動は探せば私たちの周辺に限りなく見つかる。

 思えば、美術館のない遠い昔から、私たちは生活の中で繊細で遊び心に満ちた美意識をはぐくんできた。美術館が敷居が高いと感じるようなことがあったら、こうした自分なりの小さな美術活動から楽しんでみたらいかがでしょう。美術が身近になり、気軽に美術館に足が向くようになるかもしれません。最近の美術館は「親しまれる美術館」を合言葉に、意外な仕掛けを用意して利用者を待っています。内と外とのこうした双方の活動が溶け合ったときに美術館は社会の中でその存在感を増してくるはずです。

(上毛新聞 2005年8月7日掲載)