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◎意義大きかった同意書 群馬大学の「中学校社会科指導法講座」の現地指導の折、「富岡製糸場が設立できた一つの背景には地元町民全員の同意があったからであり、これは攘夷(じょうい)思想がまだ氷解しきれていない時期ゆえに、富岡町民の開明性として高く評価すべきであろう」と解説をした。 これについて後日送られて来た学生の感想文の中に、はっとさせられた意見があった。「町民の開明性というのは本当に正しい解釈なのだろうか。例えば、明治政府が無理やりに同意を求めた結果が全員のやむを得ない回報となった、というとらえ方もあるのではないか」という極めて鋭い質問であった。 この意見に対して、当然のことながら当方の考えを説明し、返答をする必要性が出てきた。 明治三年六月、製糸場の建設場所が富岡町に仮決定になった際、町側では個々の居住者名を記した精細な町絵図を作成して政府に提出している。それによると、市街区の上町、宮本町、中町、下町の計三百十三軒、市街区外の六集落での計六十軒、合わせて三百七十三軒が明記されている。絵図には「百姓住居宅順表道等明細に記す」とあることから絵図としてはかなり正確に仕上げたものであると判断できる。 同年閏(うるう)十月二十日、正式決定を見るためにフランス人技師ポール・ブリュナと政府役人の一行が富岡に再訪した際に役人の杉浦譲が記した『客中日記』の中には、「村方異存これなき書付」「地所持主異存これなき書付」の受領という一つの目的が書かれている。この時、町側から「異存なし」の同意書が提出され、直後の同月二十三日には建設予定地に標示杭くいが打たれているので、同意書の持つ意義は大きかったのである。 同意書の前文には「異存の有無お尋ねに付、末々迄まで申し聞かせ候処(ところ)、一同承知し、異存の儀毛頭御座なく候」という文言が記され、名主黒沢源七ほか三百三十五人が連署している。 この人数は前述の絵図の戸数より少ないが、戸主の中には何人かが複数の家を所有しているので、この数が全戸主と見てよいだろう。 このように政府がすべての戸主と土地所有者から同意を求めたのは、後に製糸場の工女を募集する際に「外国人に生血を取られる」というデマや外国人に対する若干の摩擦、さらには年月不明の落書きに「今般富岡製糸場が建っては蚕場百姓は難渋する。そこで工場に火を掛けるから集まれ」という檄(げき)文も残っているが、それらを事前に防ぐための用意周到な方策であったと解釈するむきもある。 しかし、同意書を求めた真意は、当時工事が進ちょくしていた新橋―横浜間の蒸気鉄道を敷設する際に起こった反対運動の轍(てつ)を踏みたくない、という配慮があったとも解釈できよう。 いずれにしても、明治政府が発足したばかりの明治三年秋の官営工場建設に対して民意を徴していたことは、政府の柔軟性ととらえることができる。この真意が那辺(なへん)にあったのかを究明することが、実は明治政府の性格を知る上で大切な課題であると返答した次第である。 (上毛新聞 2005年8月1日掲載) |