視点 オピニオン21
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グラフィックデザイナー 木暮 溢世さん(片品村東小川)

【略歴】横須賀市出身、多摩美術大卒。制作会社、広告代理店を経て74年独立。航空、食品など大手企業の広告や、オフコースのジャケットなどを手掛けた。

後悔せず生きるために


◎信頼できる医師探そう

 六月二十一日付の本欄、群馬ホスピスケア研究会代表の土屋徳昭さんの原稿を拝読して、数年前のある人との初対面を思い出した。そのとき、彼女はすでに柩(ひつぎ)の中にいた。

 一九九一年夏に神奈川県藤沢市に誕生した「湘南生と死を考える会」に設立から参加した私は、世話人の一人として主に会報作りを担当した。イラストで協力してくれていた女性から、伯母さんである彼女のことを聞いた。

 四年半前に大腸がんの手術を受け、すでに転移した個所からがんが暴れ出し、それまでに三度の手術を受け、骨にまで転移したがんは、彼女から夜の睡眠さえ奪い去り、ソファで楽な姿勢を探しながらうたた寝をする日々が続いていたという。もう西洋医学は信じられず、唯一、横浜山手に住む東洋医学の医師を頼っていたという。
 「いまの技術で痛みの90%は抑えられる」

 そう聞いていた私は、いつでも「会」の代表世話人である医師を紹介すると伝えた。苦しむ彼女を見守るご家族も辛かったのだろう、「もういいから」という彼女を説得し、藤沢にある病院へ向かった。ひと目見て症状を診てとった医師は、彼女の思いの丈を黙って聞き、薬を処方した。その夜、彼女は数年ぶりにベッドに横になり、八時間ぐっすり眠れたという。

 しかし、病気は確実に進行し、ほどなく深夜の入院となった。

 正月のご夫婦での温泉旅行をはさんで再入院。余命いくばくもないという状況の中で、目黒区柿の木坂の自宅から十分足らず、「会」の医師ともかかわりのある駒沢の病院に移った。

 「伯母が木暮さんに会いたがっています」

 忙しさを言い訳に、こころの準備ができないまま逡巡(しゅんじゅん)しているうちに「最期にいい先生と出会えて幸せだった」という言葉をご主人に残し、昏睡(こんすい)に落ち、二十五時間後に彼女は逝った。家に帰った彼女を訪ね、「初めまして」のあいさつと別れの言葉「さようなら」が同時になってしまった。

 私が「湘南生と死を考える会」とかかわりを持ったころ、世の中ではまだ告知の是非が議論されていた。マスメディアなどを通しての情報の広がりも急速に進み、いまはもうセカンド、サードオピニオンは当たり前、どういった医療を受けるかは患者が選択する時代である。私は、むしろもっと先、自分自身がどこで、どういう死を迎えるかに思いを巡らせ、あらかじめ元気なうちから信頼できる医師、医療機関を探しておくことが大切だと考えている。

 「何かあったら、片品まで往診、お願いしますね」

 片品への移住を決め、あいさつに行ったとき、「会」の医師は「ジェット機で行くよ」と約束してくれた。実際に死が現実の目の前のものとなったとき、うろたえずにいられる自信はないが、冗談交じりにでも死を話せる死生観を持てたことは幸せだと思う。だからこそ、後悔を残さず、ひとつひとつ納得しながら生きてゆきたいと思う。最後の作品は私自身なのだから。

 この秋、先生の病院には緩和ケア病棟ができる。万一の場合の安心がひとつ増えた。

(上毛新聞 2005年7月24日掲載)