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◎心支え合う親密な文化 聖なるものを、心を支え合うものを、僕たちは久しく忘れてきてはいないか。畏い怖ふする精神や原始な記憶を失ってしまっていないか、心で神に触れ、出合うことを。ネパールに来て、失いかけていた聖なるものに気がついたのだ。 自分の中に自分を超えようとする力と、自分を世に生かしめている力の存在があることを忘れていたようだ。近代的な合理主義の自信過剰の重病にかかっている。情報に寄りかからないと生きていけないような、テレビやパソコンや携帯電話でしかコミュニケーションができない。本来の「私」を失ってしまっている。 ダッキンカーリー寺院に集まってくるヒンズー教徒を見た。教徒たちが生いけ贄にえとしてヤギやニワトリを生殺し、神々に血をささげるのは罪障消滅浄化のためらしい。素足で血の石畳を、供物を捧げ、灯明をあげて祈る姿を…。僕は傍観者のように眺めることができなかった。僕の中にある聖なるものを喪失した精神が裸体にされたのだ。 この地の知識はヒマラヤと少数山岳民族の国でしかなかったが、カトマンズ、パタン、バクタブル、ポカラの地に十五日間の滞在であったが、ネワール文化の深く敬けい虔けんな人間臭い神々との親密な文化に、心を支えるものを見た。ネパールは多神教の国である。ヒンズー教、チベット仏教、回教が共存する。寛容さがあり、すべてのものを生きとし生けるものを聖化しようとする。厳しい自然現象を擬人化した神々を信仰の対象にして、聖なる意味を与えようとする数千年の伝統があるからだ。 寺院には必ず菩ぼ提だい樹の大木が繁る。樹木のことをサンスクリット語ではパーダバという。足のことをパーダといい、パとは、飲むものという意味があるらしい。 菩提樹は、地上で光を採り入れ、根を大地にはりめぐらし、生命をくみ上げるから、パーダバをあがめ大事にしている。 戦後六十年、僕らは、より多く所有することが幸福の原理だった。「所有」に代わる新しい豊かさの原理は、どこにあるのだろうか? 人と心の疎外感は、募るばかりだ。自然と神々との距離を僕たちは再認識し、記憶をよみがえらせなければならない。開発や発展に夢中になり、ずいぶん多くの心を支え合うものを捨ててきた。これは、単なる心の郷愁ではない。「私」が見えなくなって、伝わらないもの、得られないものを。人間らしい心の世界軸を。僕の内部に眠っている魂を。 旅は一過性の出合いだが、発見があった。二十一世紀―人類はすべてのことを見尽くし、考え尽くしたという前提から出発する―と、ある哲学者が言ったが、まだまだ旅をすると啓発されることがあるものだ。普段の生活空間から他空間に身を反らせ、身震いすることも必要なのだ。 ネパールでは、一日は神への礼拝なしには始まらなかった。 (上毛新聞 2005年7月17日掲載) |