視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎受け止められる感性を 先般、某テレビでヒューマンドラマ「天国へのカレンダー」という実話に基づいて作られたドラマが放映された。全国に四十四人しかいないというホスピス専門ナースの一人を女優、藤原紀香が演じた。彼女は末期の胃がん患者であった。勤務する病院に仮名で病室を確保しながら、命の炎が燃え尽きるまで、がん患者さんの身体的、精神的、霊的ケアに全身全霊を傾け、最期は笑顔で病棟のみんなに「外国に旅立つわ」と言い残し、去っていった。 知人の看護師さんで同様な方を知っている。彼女は数年前、大腸にがんが見つかった。看護の現場で、また看護教育に携わってきたことから、自分自身の身体症状はつぶさに認識していた。三年前の秋、群馬ホスピスケア研究会で「あなたががんになったら」というテーマでシンポジウムを開催した折、出演依頼すると快く引き受けてくれた。 万一のことを考え、事前にビデオテープレコーダーで発言を収録させてもらった。真夏、一時間半にも及ぶ収録であった。結局、当日は体調が優れず、ビデオでの出演になった。彼女はいくつかの貴重な発言をしてくれたが、とりわけ「最期まで決してあきらめないで! 希望をなくさないで!」と訴えた。ドラマと彼女の姿がだぶった。 小中学生の中には「自分は死なない」もしくは「死んでも生き返る」と思っている子供が多いという報告が先ごろあったが、普通の大人たちは誰もいつかはこの命が終わることを知っている。そして、死後の葬儀や遺骨の処遇についてはあれこれと指図し希望を語る。海や山への散骨、音楽葬、樹木葬と…。 しかし、自分自身の最期をどこで、どのように迎えるか、その過程についてはほとんど語られることはない。実はここが一番肝心だと思うのだが、思考のエアポケットのようにポッカリ抜け落ちていることが多い。毎日の新聞で目にするお悔やみ欄。三人称の死、これらは平常心で見られても、二人称の死となると途端に狼狽(ろうばい)する。まして、一人称の死についてはパスする。 いわば三人称の死は見えない死、二人称の死は見える死、一人称の死は見たくない死なのかと思う。これは、凡人にとって、ごく当たり前の心理かもしれない。私たちは不幸にも身近に事故や病気で亡くなった人でもいないと、見える死に向き合うことはない。 この三月の定年退職後、A病院の緩和ケア(ホスピス)病棟ボランティアとして定期的に活動させてもらっている。患者さんたちと出会う。そこにいる人たちは、常に一人称の命と向き合うという現実を生きておられる。そこは、命の実存ということに気付かされる場所である。 一九九〇年、日本に緩和ケア(ホスピス)が創設されて十五年がたった。当初、五施設で始まった緩和ケア(ホスピス)病棟が五月現在、百四十四施設(二千七百十八床)、開設準備中の施設は六十六団体を数えるに至った。施設、病床は確実に増えている。 緩和ケア(ホスピス)を増やすということは、命の実存と尊厳とを受け止められる感性を社会に涵養(かんよう)することだと思う。 (上毛新聞 2005年6月21日掲載) |