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◎見習いたい地域づくり 「平成の大合併」で、新しい自治体が次々に誕生しているが、わが国はこれまで「明治の大合併」「昭和の大合併」といわれる全国規模の町村合併を行ってきた。 明治の大合併は、富国強兵の近代国家を建設するため、国政委任事務(徴税、徴兵、教育など)を担当できる地域社会をつくる必要から断行された。合併は国家的な見地から強引に進められたため、自治体内に集落(大字)の団結を残存させ、選挙や役場・小学校の位置問題などを契機に抗争が起こり、納税拒否が行われ、町村長が短期間で交代し、その選出さえ困難な自治体も現れた。紛擾(ふんじょう)が絶えない町村は「難治の町村」と呼ばれた。 有馬、八木原、半田の三村が合併して誕生した古巻村(現・渋川市)も、典型的な「難治村」であった。ところが、三十三歳の侭田定三が村長(在任・大正二―十四年)に選出され、挙村一丸となって村治の改善が行われると、同村は本県一の模範村となった。 詩人の野口雨情は大正十五年、前橋から利根・吾妻川を遡(さかのぼ)る旅を行い、紀行文「大利根八十里を遡る」を東京日々新聞に連載した。 「坂東橋を越せば、有名な群馬県の模範村古巻村である。十数年前まで『半田烏(がらす)に八木原狐(ぎつね)』とうたわれたほど、淫靡(いんび)極まる不良村であつたが、現村長侭田氏の努力によつて今では全国でも有数の模範村となつたのである。侭田氏が今日までの努力は、涙なしでは聞かれぬ幾多の美談がある。村人が今二宮と称して侭田氏を尊敬してゐるのを見ても如何(いか)に実践実行の人格者であるかが想像される。童謡詩一編。侭田村長さんは鉄砲打つた/半田烏はもうゐない/八木原狐ももうゐない/侭田村長さんは鉄砲打つた」と、雨情は紀行文に古巻村のことを書いている。 村民は侭田村長が日夜公務のため私事をなげうち村治改良に努めたため、村長の村を思う情が熱烈であることを知り、村長を信頼し滞納者がいなくなった。村長は神社に村民を集め、村治を報告し、次年度の執行を神明に誓い、政策をすべて実行したため、産業・教育が飛躍的に発展した。古巻村は大正十年から三年間連続して優良村として県から表彰され、県内外から視察者が集まるようになった。 しかし、侭田は納税率や教育、産業など数値化した成果を上げることを目標や理想とせず、「私の理想は生き生きとした所の村を建設したいと思います、私は優良村等の名称は希望しないのであります」とした。この点が侭田村長の本当の立派さで、村民から「いま二宮(尊徳)」と慕われ、野口雨情を敬服させたといえる。 平成の大合併は、IT(情報技術)革命による情報化、少子高齢化、地方分権社会に対応した社会づくりが目的で行われている。新しく誕生した自治体は、かつての古巻村のように「生き生きとした気分」が充満したものでなければならない。先人を見習って、二十一世紀の地域づくりを行いたいものである。 (上毛新聞 2005年5月26日掲載) |