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◎生活の中にある信仰 ひなびた赤壁の街角は、時間が止まっていた。僕はそこに立っていた。二月下旬は乾期なのだが…。早朝のカトマンズは煙っていた。レンガ色した、くすんだ霧の中に影絵の中にいるように街が浮かんでいた。ここはネワール文明の栄えた秘境の国ネパールなのだ。塵(ちり)と動物と錬り香の混じり合ったネワール独特のにおいが鼻を突く。霧の鏡に映し出されたように「私」がそこに立っていた。 十二世紀から十三世紀ごろのたたずまいの街並みに沿った石畳の上に「私」がいる。僕は迷ったのだろうか? 中世の街の中にいきなり放り込まれたようだった。自分の時間が巻き戻されたような錯覚にとらわれた。日本では見えなかった「私」がそこにいるではないか。子供時代の国府村の往還に立っているような懐かしい気分になった。村はずれにあった薬師寺や妙見寺のお堂の庭や、春秋の祭りの夜の菜種油の燃える灯明のにおいがよみがえってきた。 靄(もや)がよどむように沈むと、四方から朝市の叫び合う人々の声が飛び交う。おそらく何百年も繰り返し続いている朝だ。ネパールの人々は皆知っている、貧しい、カースト制度の生きている日常の繰り返しなのだろうが…。神々とともに生きている。朝は活気に満ちている。僕は旅人だ。 僕が「私」に出合うということは、こうした日常の中に精神が僕を素直に裸にし、真の人間性を解放し、理解し、取り戻したからなのだろうか? 生活のリズムや、思考の文脈をずらしたからだろうか? 僕は一人の旅人だ。遠いこの地、南アジアの神秘のヒマラヤに来て二日がたっていた。神々はいたる所に住んでいる。街の四つ角や入りくんだ路地や商店の入り口の横に、大小のさまざまな祠ほこらがあった。 何とたくさんの祠があるのだろう。あきれるほどだ。木造や石造りの祠堂(しどう)の中には神々がいる。シヴァ神、ヴィシュヌ神、ガネーシャ神、女神ドゥルガーが血に塗り込められて顔も見えない。花と香と灯明に浮き上がる。灯火が揺らいでいる。神々は何を見ているのだろうか? 人々はひざまずき、両手を合わせ祈りをささげている。血塗られた神々に触れ、つぶやくように祈っている。神々と会話をしているようだ。 突然、車のクラクションがけたたましくなり、バイクのエンジン音が街中に響き渡る。騒音が波のように押し寄せるが、人々は動じない。日常の営みのように祈りをささげている。信仰なのだ。信仰が生活の中にある。ネパールでは、神々が人に入り込むのだという。聖なるものが人間に入り込むらしい。聖なるものが「私」を見ているらしい。僕たちの少年時代にも、家の中に神棚、仏壇があり、屋敷神様がどの家にもいた。暮らしが季節とともに聖なるものを取り込んでいた。 (上毛新聞 2005年5月18日掲載) |