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◎用意周到な能力備える 富岡製糸場の外国人首長として活躍したフランス人のポール・ブリューナは、明治四十年一月に大日本蚕糸会から表彰されている。 その最大の理由を要約すると、「洋式製糸の模範を示し、小枠再繰式を採用して糸の膠着(こうちゃく)を防いだのは湿気の多い本邦の気候に適した卓見であり、その後、多くの製糸場がみな模範とした功績は顕著である」ということであり、彼は金賞牌はいを授与されたのである。 当時の欧米の製糸器械は、すべて小枠に糸をとって、次の工程に回す方式(直繰式という)を採っていたが、日本の場合は座繰り製糸の時代から小枠にとった糸をさらに大枠に揚げ返しをする方式(再繰式という)を採らざるを得ない状況にあった。理由は表彰状にあるように、湿気が高いために小枠だけでは糸が膠着して、織物にならない危険性があったからである。 ブリューナがこの方式を取り入れたのは決して偶然ではなく、明治三年閏(うるう)十月十七日に製糸場の敷地がほぼ決定された翌日には「村女四人」を雇わせ、従来通りの日本風の製糸をさせた結果から導き出していたのである。 なお、このときに雇い入れた四人の女子は製糸器械の導入以後はフランス人の女教師の直弟子となり、やがて日本人工女の指導者になって大きな功績を上げている。 さて、村女四人に試験繰りさせたブリューナは、この結果を持って渡仏し、製糸器械を特注したのである。特に従来の洋式製糸器械と大きく異なる点は直繰式を再繰式に改めたこと、器械の高さを低くしたことであった。つまり、彼は洋式製糸器械を日本の気候や工女の体格に合わせて、あえて改良したのである。 彼はもともと慶応二年にフランスの貿易商社ヘクト・リリアンタール社の生糸検査人として来日したのであるが、実地踏査の結果、繭の大生産地の富岡町を選んだことや、村女に生糸の試験繰りまでさせながら洋式製糸器械を大幅に改良した彼の手腕を見るとき、彼は単なる生糸検査人ではなく、それを超えた用意周到なる能力を備えた経営者・管理者であったと評価できる。 つまり、当世風に言えば、知恵と決断力と実践力を持った人物であった、と高い評価を与えることができよう。彼らが在勤中の明治八年度までは、富岡製糸場の経営は大幅な赤字続きであった。その原因の一つに、ブリューナを含むフランス人の高給が挙げられている。しかし、ブリューナと明治政府が取り交わした契約書には、総収入から総支出を差し引いて算出された黒字分についてはその十分の一をブリューナに報償として与える、という規定さえあったのである。 当時の富岡製糸場の規模は、産業革命の終えた欧米のいかなる器械製糸場よりも突出して、大規模な製糸場であったことは事実である。 それゆえに日本人の手には負いきれず、経営難が続いたという結論だけではブリューナの意思が見えてこない。そこに、世界遺産の登録に向けた新たな検証が必要となるはずである。 (上毛新聞 2005年4月28日掲載) |