視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎先人の徳を持ちたい 北甘楽郡小幡町善慶寺(現在の甘楽町小幡)に、黒沢長吉(明治四―昭和四十一年)という人がいた。黒沢家に出入りした蚕種業者の荻野千代吉が熱心なクリスチャンであったことからキリスト教に興味を持ち、十四歳で安中教会の海老名弾正から洗礼を受け、新島襄にあこがれ同志社英学校に入学した。卒業を前に発病し二十歳で帰郷、健康回復後に組合製糸甘楽社の名社長とうたわれた山口太三郎に見込まれ、同社の工場監督となった。 その後、農業を営みながら、甘楽社小幡組、小幡産業組合、同農会などの指導者として活躍する一方で、九十六歳の生涯を敬虔(けいけん)なクリスチャンとして過ごし、私財を安中教会の柏木義円、甘楽教会の住谷天来、青柳新米校長の共愛女学校などのために使い、墓碑には自ら「我ハ途ナリ真ナリ生命ナリ」という聖書の一節を刻んだ。 幼少時から漢学を宝積寺住職、種村観道から学び、住谷天来とはキリスト教と漢学で結ばれ、肝胆相照らす仲であった。長吉は「三友軒逸峰」と号した。「三」は天地人、三界で世界を意味し、「三友軒」は世界皆友人という、天来の非戦平和論からとったものであった。 長吉は書斎に自ら「三三五五到達主義」と墨書した額を掲げた。これは産業組合や農会などの指導者をつとめた長吉が、その体験から得た帝王学というべきものであった。組織体には理解の早い人もいれば遅い人もいる、指導者は我慢辛抱が大事で、大きな風呂敷に包むようにして一つの方向に導いていかねばならない、と長吉が自らに言い聞かせ、指導者としてその大成に励んだ座右の銘であった。 長吉の「三三五五到達主義」の話を聞いたときに、先人の生き方の素晴らしさに感動するとともに、立命館総長であった末川博の次の言葉を思い出した。「平和運動で注意せねばならないことは、人にはそれぞれに立場があって、百メートルを全力で疾走できる人もおれば、二十メートルしか走れぬ人もいる。少ししか走れぬ人を卑ひ怯きょう者とか不熱心とか軽けい蔑べつすることが、平和運動で一番危険なのだ。スタートに立って走らない人でも、ゴールに向いておれば、包み込んでいかねばならない」 末川は民法学者で、『六法全書』(岩波書店)の創始者として知られ、戦後は群馬町出身で同志社総長であった住谷悦治との息のあったコンビで、学問の府・京都の顔として平和運動、民主主義運動を支えた主柱であった。 いま、時代は変革期で、強いリーダーシップが求められている。しかし、それは権力を行使する人が、生身の自分の考えや感情を押しつけて強権を発することではない。黒沢長吉の「三三五五到達主義」のような徳を持つことである。世に知られざるところに徳人があり、知られている人に不徳の人が多い。長吉翁は昨年七月に甘楽町長を退任された黒沢常五郎氏の祖父にあたる。翁のことは常五郎氏の自著『李すもものはな』に詳しい。 (上毛新聞 2005年4月13日掲載) |