視点 オピニオン21
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元書店役員 岡田 芳保さん(前橋市元総社町)

【略歴】群馬町生まれ。長年にわたり書店煥乎堂に勤務。常務を務めた。企画展などの実績でNHK地域放送文化賞受賞。詩や書にも取り組む。号は住谷夢幻。

定点を求めて


◎物差しを取り戻したい

 戦後六十年になる僕たちがいる所、日常生活をしいる現在、「私」の定点とは何か。人間として人間らしく生きていくことである。六十数年になる僕の人生を思い切り揺さぶってみたい。僕たちは、土地や家や物をより多く所有することが生きる原理だった。豊かになるという神話を抱き続けた。

 民主主義を信じ、多くの物を所有する市場原理主義にすべてをかけたのだ。豊かさを求めて、貪どん欲よくに生きた。経験のイメージで生活を満たしてきたのだ。しかし、豊かさが失われてきていると感じる時代になってしまい、「私」が「私」でいられなくなっているのだ。あまりにも情報や物に誘導され続けていないだろうか。欲望こそメディアだ、という発作に襲われる。人間らしく生きられない問題を抱えてしまった。凡庸だが深刻だ。

 自分の生きている定点が見えにくくなっているからだ。途方もない悪夢のような「9・11」米中枢同時テロは、偶発的事件だったのだろうか? テクノロジーのコントロールを失いつつある現代は、発作的出来事となって迫ってくる。

 「現在、私たちが立ちあっている政治や社会の内破現象は、自然災害のようなものであり、私たちが作ってきた歴史=物語のような出来事の行為者を特定できる時点を越えてしまったのです。そうして、こうしたいわば歴史の終わり以後の段階では、もはや主体を問うことは問題ではありません」

 現代フランスを代表する思想家のボードリアールは、このように言う(『暴力とグローバリゼーション』)。

 行為者を特定できる時点を越えてしまった。出来事多発の社会になってしまった。グローバル化された二十一世紀の世界が見えなくなってきている。見えなくなるグローバル化とは、皮肉なことではないか。主体を問うことが問題でなくなれば…僕たちはどう生きればよいのだろうか? メディアの背後に人は生きている。「私」の欲望がメディアに情報を与え続けるからだ。凡庸な問題を抱えてしまっている。生きている人間が「私」でいられる物差しを取り戻さなければならない。

 「私」が「私」でいられる主体を問いたい定点とは、どこだろうか。自問すればするほど充実感が持てないのは何故なのか? 主体でいられる実感がないのである。家庭とか、職場とか、地域社会とか、いや、所有とか、欲望とか、夢とか、ありあまる情報が、あればあるほど虚無感がつきまとう。イメージで生活を満たしているのだ。バーチャルな時間に追われている。「私」が人間でいられる「場」が失われているのである。

 僕たちのあくなき欲望が情報を与えてしまい、しっくりいかず、不快感が募るのは、何故なのか? 何をすべきかではなく、何をなすべきでないかの節度を求めるのに気がつくのが遅すぎてはいないか。「私」が人間でいられる物差しを探さなければならない思いで旅に出た。旅とは一過性にすぎないのだが…。

(上毛新聞 2005年3月24日掲載)