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群馬大学大学院工学研究科教授 大澤 研二さん(桐生市相生町)

【略歴】岡山大理学部卒。名古屋大大学院博士課程単位取得。理学博士。同大学院助教授、科学技術振興事業団などを経て一昨年4月から現職。愛知県出身。

卒業論文の意義


◎単位のみの要件に疑問

 春は卒業の季節である。四年間過ごした大学を巣立つにあたり、多くのところで卒業論文の提出を義務づけられる。実際には、ある単位数を卒業論文あるいは卒業研究に充て、それを必修科目に設定する場合が多い。

 大学生は四年になると、文系学部、理系学部を問わず、特定の研究室に配属され、一年間専門分野の調査・研究に明け暮れる。文系学部のように、ゼミ形式で毎週の勉強会とそのまとめとしての論文提出を課すところもあれば、理系学部のように、実験研究を主体とし、その結果を論文としてまとめ、口頭発表させるのを課題とするところもある。いずれにしても、それまでに学んできたことを基礎とし、そこからさらに何かを積み上げることが要求され、大学生活の集大成としての存在意義は大きいとされてきた。

 ところが最近、この辺りの事情に多少の変化が生じている。多数の学生を抱える私立大学では、すべての学生に卒業論文を課すと指導がままならなくなることから、卒業研究を必修科目から外し、卒業要件として総単位数さえ足りていれば認定するところも増えている。つまり、専門性が要求される科目の代わりに、基礎教養科目の単位を取ることで卒業できるようになる場合もあるのだ。

 ここには別の事情もある。例えば、大学生の一大目標である就職のための活動は、四年の前半に集中しており、講義への出席が困難であるばかりか、研究に時間を割くのも難しい。また、専門的知識が不十分な状況で、卒業研究に取り組めない学生が増えているという話もあり、教員の負担を考えると選択科目にした方がよいとする向きもあるようだ。

 実情に合わせて教育制度を整備するという考えからすると、こんな動きは当然のものであろう。しかし、この考えには肝心なものが抜け落ちているように思える。不十分な知識しか身に付けていない人間を、卒業させなければならない実情は、教育現場として正しい方向に進んでいるといえるのだろうか。

 昔を思い出すと、卒論の草稿を提出するたびに指導教授から真っ赤になったものが戻され、それに推敲(すいこう)を重ねる作業を繰り返した。今と違って、講義でのリポート課題がほとんどない中で、卒業間近に課せられた重い課題であり、大きな壁が目の前に立ちはだかっているような気がした。それでも何とか締め切りに間に合ったとき、どこかに不思議な満足感を感じたものだ。

 能力が十分じゃないとか、時間が足りないとか、さまざまな問題があるのは事実だろうが、そこで別の道を作ってやることが、果たしてよい結果を生み出すのだろうか。今も昔も、大学卒業において要求される最低限の資質については、さほど変化していないと思う。いろんなところで「物分かり」のよい大人が増えていると聞くが、こんな「物分かり」のよさは、せっかくの才能の芽さえも摘み取ることになりかねないのではなかろうか。

(上毛新聞 2005年3月12日掲載)