視点 オピニオン21
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県立歴史博物館専門員 手島 仁さん(前橋市下佐鳥町)

【略歴】立命館大卒。中央、桐生西、吉井の各高校や県史編さん室に勤務。政党政治史を中心に近現代史を研究。著書に「総選挙でみる群馬の近代史」などがある。

『群馬の医史』から


◎政治家も権威が必要

 『群馬の医史』という名著がある。以下、人物の敬称を略して記すが、同書は羽生田進が会長であった県医師会が結成十周年を記念して、昭和三十三年に刊行したものであった。

 著者の丸山清康は、旧制前橋中学校教諭や県史跡主事を歴任し、雑誌『上毛文化』『上毛史学』『群馬文化』を編集発行した歴史研究者であった。羽生田は旧制前橋中学校から慶応大学医学部に進み、父の眼科医を継ぐ傍ら、昭和三十二年に四十七歳の若さで県医師会長に選ばれ、同四十七年には衆議院議員となって活躍。晩年には本欄執筆のオピニオン委員も務めた。丸山は羽生田の前橋中学時代の恩師で、『群馬の医史』は、丸山―羽生田の師弟愛から生まれた。

 『群馬の医史』のような団体・組織の記念誌には、名士の序文がつけられるのが常である。同書にも、武見太郎(日本医師会長)、田宮猛雄(日本医学会長)、橋本龍伍(厚生大臣)、灘尾弘吉(文部大臣)らの序文が掲載されている。序文を寄せるような名士は公務多忙で、多くの場合、官僚や秘書などが代筆することもしばしばである。

 厚生大臣の橋本も「寸暇ないほど忙しい」ので「下書きを事務官に書いてもらおう」と思った。しかし、書かれている医師たちの「済民の意気」に感動し、「人手を借りて序文を書くのは相済まぬ」と、自ら序文を書いた。橋本は小学校三年生の時、結核性股こ関節炎になった。十年の闘病生活で両親は名医を求め続けた。受診に向かう人力車の中で父親が龍伍少年をひざに乗せ、「お医者さんの偉い人を昔から国手と言うんだ。国の手のような役をして、国の中の病人を治してくださるという意味だ」と、励ましてくれたという。

 橋本は東京帝国大学から大蔵省に入り、昭和二十四年から衆議院議員となり、厚生大臣、行政管理庁長官、文部大臣などを歴任したが、五十六歳で病没した。大蔵省時代は福田赳夫元首相と同僚で、福田の『回顧九十年』にも敗戦後の占領軍による軍票の使用を阻止するために、「不自由な足を引きずりながら雨の中を駆け廻まわったり、ずいぶん苦労された」と出てくる。軍票を使用するか日本の通貨にするかが、直接、間接統治の分岐点であった。

 橋本龍太郎元首相は龍伍の長男、大二郎高知県知事は二男である。立派な父を見て育ち、兄は政界の頂点を極め、弟は改革知事の代表で「将来の総理候補」となった。ところが、兄は「一億円献金隠し事件」、弟は「裏金疑惑」という「政治とカネ」をめぐる問題で、政治不信を増幅させている。龍伍は『群馬の医史』の序文の最後を「医者は権威を持たねばならない。そして先人の遺産の上に一層輝かしい未来を築きたいものである」と結んだ。

 権威を持たねばならないのは政治家も同じで、政界も橋本龍伍のような立派な先人の遺産の上に輝かしい未来を築かねばならない。丈夫の進退は義に則のっとれば進み、反すれば退くという。橋本元首相には、立派な御尊父に恥じない、丈夫の進退を望みたい。

(上毛新聞 2005年3月1日掲載)