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高崎市城東小学校栄養士 丸山 昌子さん(高崎市江木町)

【略歴】東京農業大短大栄養科卒。富岡市学校給食センターのほか、自校で献立作成や調理を行う高崎市の中尾中などに勤務。同市学校栄養士会献立作成班所属。

学校給食週間を終えて


◎伝えたい「食」への感謝

 昨年十一月、「小千谷で給食再開」という新聞記事を目にした。新潟中越地震で学校給食がストップしていたが、十日に再開されたという内容だった。子供たちがパンと牛乳、プリンを前にして、待ちきれない表情で手を合わせる姿が映し出されていた。「給食をすごく楽しみにしていた。みんなと一緒に食べるの楽しいから」という子供たちの声に、たとえ温かく調理されたものはなくとも、給食の楽しさが伝わる、うれしい一言であった。

 私の父はサツマイモを食べるたびに、こんな話をしていた。「子供のころ、ずいぶん芋を食べたな。今のようにおいしくなくてな、弁当だって芋が大半の芋ご飯に梅干しだったな。それでも持っていければいい方だ」。幼かった私は「また、始まった」と思いながら聞いていた。今考えれば、食糧難を体験した父なりの、今で言う「食育」だったと思う。そのおかげで、私にも「もったいない!」が少し身についたようだ。

 今は、どこへ行っても食べ物があふれている。店に行けば、いつでも買えて、食べたいものを食べられる時代。食べ残すことも当たり前になっている。最近の子供の中には、お腹がすいたという感覚が分からない子も少なくない。ある本に「飽食」という言葉が「崩食」と書かれてあった。飽食はやがて食文化全体を崩すことにつながりかねない。子供たちに食べられることのありがたさを伝えていくことの難しさを痛感している。

 給食の歴史を振り返れば、日本で最初に始まったのは明治二十二年。山形県の小学校で弁当を持ってこられない子供たちにお昼を作ったことが始まりだった。戦争で一時中断されていた給食は戦後の昭和二十二年に米国などの援助物資により再開された。栄養補給が目的であった給食も時代が進むにつれ、献立内容も多様化し、今では日本食はもとより中華やイタリアンなど、さまざまな外国のメニューがあるかと思えば、セレクト給食やバイキング給食では自分で選べる楽しさも味わえる。

 そんな中、給食の歴史を知り、給食にかかわる人たちの苦労を理解して、感謝の心を持たせ、食べ物を大切にしようという目的から全国学校給食週間が設けられている(旧文部省が昭和二十一年に一月二十四日を学校給食記念日と定めていたが、同二十五年に一月二十四日から三十日までの一週間を全国学校給食週間と改めた)。

 今年も期間中、いろいろな方法で児童や保護者に趣旨を呼びかけた。給食づくりの様子をビデオで紹介したり、献立には明治二十二年ごろのものを再現した。当時のものより食材は良くなったが、塩おにぎり、焼きザケ、漬物のメニューに、子供たちの反応はどうだったろう? わずか一週間で学校給食週間の趣旨が徹底できるとは思わないが、「食」に感謝し、自分の「食」を見直すきっかけになったとすれば幸いだ。

(上毛新聞 2005年2月26日掲載)