視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎残したい歴史ある鉄路 明治維新成立後の近代化の富国強兵殖産興業を目標に近代国家建設を進める政府は、明治十四年に日本初の私設鉄道会社を許可して、日本鉄道会社が設立された。明治十七年五月、上野―高崎間が開通し、群馬の地に初めて汽車が走った。桐生新町と取り巻く村々も近代化の気運旺盛となり、輸出織物の生産が始まった。設備関係では蒸気機関応用の織物整理の機械運転が始まり、外国製の紋織物関係設備が輸入された。教育関係では桐生織物講習所が開設されている。 足尾銅山も徳川幕府領の時代が終わり、明治四年、民間に払い下げられた。権利は何人かの手に渡ったが、経営は銅の産出量が少なかったため不振に終わった。明治十年に経営が古河市兵衛の手に移り、西洋の近代設備が導入された。明治十七年、埋蔵量の多い新鉱脈が発見され、産出量が飛躍的に増えた。精錬された銅の運送手段としていた、あかがね街道を馬で運送する量が限界となり、鉄道敷設が急がれた。 桐生新町の有志が誘致しようとした足尾鉄道の測量図面(明治十九年)が有志のご子息宅に保存されている。現在のJR桐生駅が始発の予定だったが、町や村の中心部を通過する構想のため、地元で反対運動が起こった。測量図には桐生新町の北部に鎮座する天満宮から北へ向かい、現在の梅田町忍山川をさかのぼり、郡境までの約二十キロが記録されている。鉄道の誘致は、桐生新町議会の委員会発議で、同町議会議員、玉上善次郎が中心になって、測量されたと思われる。 詳しい経緯については百十八年以前の詳しい資料がないため不明だが、測量図面は和紙に記録されていて、全体を広げてつなぎ合わせると約二十メートルにもなる。何年も前から梅田地区に入り、古老から鉄道について聞き取りをすると、親から、また祖父母から、梅田に汽車が通る予定だったが、有力者や地主が山火事を心配しての表向きの反対で駄目になった、との証言を多くの人から聞いた。 明治・大正時代は、全国的に鉄道に対して利害関係が絡み、未知の不安も多く、病気が入って来るとかで沿線予定の住民は大変だった。本県でも、養蚕業の桑への煙害も心配が多かったようだ。足尾鉄道も、現在のルートに決着するまでに大間々駅から両毛線の岩宿駅を結ぶルート、桐生駅から川内村、高津戸を通って大間々に至るルートが構想としてあったとの記録もある。 開通から九十年余の今日、足尾鉄道から国有鉄道足尾線、平成元年三月二十九日に第三セクター、わたらせ渓谷鉄道株式会社にと名称も変わり、再度、株式会社となって新しい経営に変わった。 現在、その鉄道の存続が問題視されている。自動車全盛の時代に鉄道を残すことは大変かと思うが、通学や高齢者の足としての役割を考えると、群馬、栃木両県の支援を得て、何としても鉄道を残してほしいと思っている。 (上毛新聞 2005年2月4日掲載) |