視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
県立歴史博物館専門員 手島 仁さん(前橋市下佐鳥町)

【略歴】立命館大卒。中央、桐生西、吉井の各高校や県史編さん室に勤務。政党政治史を中心に近現代史を研究。著書に「総選挙でみる群馬の近代史」などがある。

西園寺公望と伊香保


◎泉下からも信頼の願い

 私の母校・立命館は西園寺公望(一八四九―一九四〇年)を学祖としています。西園寺は近代日本を代表する政治家の一人ですが、あまりなじみがないので、まず簡単に紹介します。

 西園寺は公家の名門・徳大寺家に生まれ(西園寺家へ養子)、幼少期は二歳年下の明治天皇の遊び相手でした。戊辰(ぼしん)戦争では、山陰道・北陸道鎮撫(ちんぶ)総督として活躍。明治三年にフランス留学を命じられ、ソルボンヌ大学を卒業。帰国後は伊藤博文の憲法調査に随行したり、ウイーン、ベルリン、ベルギーで特命全権公使を務めました。フランス滞在十年、公使生活五年の海外生活から、国際主義、自由主義を身に付けました。

 伊藤の後継者として第二代立憲政友会総裁に就任、桂太郎と交代で内閣を組織(桂園時代)。総裁引退後は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本全権を務め、元老として天皇に後継内閣を推薦しました。

 明治憲法は絶対主義的な面とリベラルな面を持っていました。西園寺はリベラルな面の成長を望み、天皇の下にリベラルな政治体制をもつ日本が英米などの西欧諸大国と協調しつつ、世界政治の中で重きをなすことを生涯を通じて願っていました。

 西園寺の九十二年の生涯は、本県と何も関係がないように見えますが、よく調べてみると、伊香保温泉を愛し、明治四十四年から大正十年まで十年余りを、毎年夏になると伊香保で過ごしていたことが分かりました。避暑の期間は七月下旬から九月上旬まで一カ月以上におよび、宿は木暮武太夫旅館と決まっていました。

 西園寺が避暑中の大正九年八月三十日、伊香保は大火に見舞われました。町の大部分を焼失するという大災害でしたが、西園寺の定宿には及びませんでした。「伊香保大火」の惨状は海外へも報道されました。すると、西園寺のもとへアメリカ合衆国の陸軍大将タスカル・ブリスから、西園寺と伊香保町民を気遣い励ます見舞状が届きました。西園寺は返書をしたためるとともに、タスカル・ブリスの手紙を大芝惣吉県知事を通して伊香保町へ届け、町民を激励しました。

 壊滅的な被害を受けた伊香保は、町民挙げての努力と、西園寺ら伊香保を愛した人々や国内外からの義援金などによって、見事に立ち直りました。

 ところで、「日本の名湯」とうたわれた伊香保温泉が温泉表示不正問題で、その名声を失墜させています。新聞報道などによると、町では新温泉観光政策を発表し、政策を通じて信用を取り戻すということです。一日も早い信頼回復は、泉下の西園寺も願っているに違いありません。

(上毛新聞 2004年12月31日掲載)