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群馬大学学長 鈴木 守さん(高崎市石原町)

【略歴】静岡県出身。千葉大医学部卒。東京大助手、東海大助教授を経て76年群馬大教授。同大医学部長、副学長を歴任、03年から現職。専門は寄生虫学。

中越地震と群大病院


◎救援第一に考えて実践

 十月二十三日の小千谷市を中心とする地震が起こった翌日、森下群馬大学附属病院長より「小千谷総合病院が群馬大学の関連病院であるので、救援チームを派遣すべく準備を整えつつある」旨、電話連絡があり、病院長室に出向いた。すでに第一次医療支援チーム出発の態勢は整っていた。横森小千谷総合病院長との連絡がとれて、小千谷総合病院が一階を除いてほとんど壊滅状態であることが判明した。幸いにもスタッフ、入院患者は一人残らず無事とのことだった。われわれは支援に全力を挙げる旨を告げ、ひとまず電話を切った。

 十月二十六日出発の第一次支援隊から先月十日の四次隊まで順次バトンタッチされ、群馬大学医療支援隊は余震の続く現地において医療に当たった。この間、医師二十九人、看護師八人、薬剤師三人、事務職員等十一人がすべて手弁当で参加した。現地では沼田脳神経外科循環器科病院からの派遣スタッフとの共同体制も編成され、現場で巡り合わせた日本大学チームとの協力による活動も行われた。

 群馬大学では、募金協力の呼び掛けが各部局の教職員、学生に対して進められた。義援金の一部は本学教職員、学生の被災者に渡されたが、三分の二にあたる金額は新潟共同募金会委員長である新潟日報社の星野社長に届けることにした。初冬の美しい日和の今月二日、池之上事務局長とともに関越道を新潟に向かい、途中、小千谷総合病院に立ち寄って状況を見舞った。十月三十日までにライフラインが回復したため、病院業務は外来、病室とも通例の様子と見受けたが、所々に地震の傷跡もあり、六階はまだ工事中だった。

 応接室では明治の病院創立以来、置かれてあった巨大な金庫が大きく移動したままで、人力で元の場所に戻すことは不可能とのことだった。群馬大学で集まった義援金の総額は阪神淡路大震災の際に東京都が神戸市に送った見舞金の額を超えていた。医療支援については先月四日、金沢で開催された国立大学協会総会において何人かの学長から賛辞があった。経費の問題や万一の事態が生じた場合の責任などの論議は全くないまま、皆の身体の動きがひとりでに先行していたように思う。

 私は大学の管理者として落第なのかもしれないが、病院長以下の群馬大学スタッフが現場での救援を第一に考え、実践したことを正解とし、誇りに思っている。小千谷総合病院での佐藤看護部長の話も紹介したい。

 「地震が起こった瞬間、病院の外に逃げ出した看護師は一人もいませんでした。病室の壁が壊れ落ちたり、天井から水が降り注ぐ中、反射的に患者さんのベッドに飛びつき、点滴チューブが外れないよう右腕で抱え、あるいは右手で送管中のレスピレーターが外れないよう押さえて、左手は自分が飛ばされないようベッドのさくを握りしめていました。皆、自分はこのまま死ぬのだと思っていたそうです」

 死を覚悟し、反射的に入院患者を守った看護師の行為は、天使の行為である。小千谷総合病院の廊下で会釈を交わして何事もなかったかのようにすれ違った、ごく普通の看護師さんたちこそ、その天使であった。

(上毛新聞 2004年12月22日掲載)