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グラフィックデザイナー 木暮 溢世さん(片品村東小川)

【略歴】横須賀市出身、多摩美術大卒。制作会社、広告代理店を経て74年独立。航空、食品など大手企業の広告や、オフコースのジャケットなどを手掛けた。

片品に移り住んで


◎不便さが気にならない

 「片品村の一関さんの一段下の畑、地主さんが買い手を探してるらしいの。どうだろうね」

 母の群馬女子師範学校時代の同級生で、村で評判だったらしい小学校の先生からの情報を、母が知らせてきたのはもう三十年以上前になる。

 それまで私の記憶にあった片品村の絵柄は、バックミラー一面の土ぼこり。大学時代の夏休みを利用して、友人と磐梯山へ行った折、鬼怒川から今市、日光を通り、金精峠を越えて沼田へ抜ける、まだ鋪装もされていないでこぼこ道の途中に、静かでのどかな山村があったというかすかな記憶だけがあった。

 「たまに来て二、三日泊まれればいいんだろ」と言って、沼田で建築業を営むいとこが雨露をしのぐには十分な小さな家を建ててくれ、一九七三年秋、片品村との縁ができた。

 大学卒業後、制作会社や広告代理店を渡り歩いた。五年間勤務した後、フリーになった私は三十代も終わりごろになって、そのまま広告制作を続けることへの疑問とアーティスト志向が強くなってくるのを自覚していた。注文が来なければ自分の年賀状さえ、ぎりぎりまで創(つく)ろうとしない自分の習性に焦りを感じ始めていた。

 「作品を創らなければ」

 八七年夏、私はアメリカ横断ドライブひとり旅をした。横須賀で生まれ育った私の幼いころの遊び場には、白い金網のフェンス越しにアメリカ海軍基地があった。中学、高校時代は映画、音楽、テレビドラマ、ファッションの洪水がアメリカから押し寄せた。フェンスの向こうのアメリカ、本当のアメリカを見てみたい。そんな夢が高じての旅の実現だった。都会派を自認していた私は、ユタ州プロボ、コロラド州ボールダーなど、いくつかの田舎の町や村で妙に気持ちが和むのを感じた。ニューヨークでさえ、マンハッタンから車で三十分も郊外へ出れば、道端にシカを見かけた。

 「いずれはこんな田舎に住みたい」

 旅のあれこれを一冊にまとめて、九〇年に本を出版した。自分の創作意欲を出発点に、納得だけを基準にして、初めてちょっとは胸を張れる作品ができ、私は創る喜びと大切さを知った。

 「いずれは片品に住んで作品を創りたい」

 二人の子供が大学を卒業し、親としての責任を果たしても東京を離れる決心はなかなかつかなかった。親しくしていた同級生の急死に背中を押され、ようやくフリー生活三十年の区切りの昨年五月末、赤い灯、青い灯の東京・赤坂から星影清らかな尾瀬のふもと、片品村に移り住むことになった。

 片品村には本屋がない。CDショップもレンタルビデオ店もない。不便ではあるが、今のところ、その不便さが気にならない。襟裳の春か片品かというほど何もないが、ここにはきれいな空気がある。おいしい水がある。四季折々、一日一日表情を変える緑がある。晴れた日には昇ってから沈むまで燦さんさん々と降り注ぐ太陽がある。夜には満天の星が降る。道端にシカも見かける。

 「ここが変だよ!片品」と思わず突っ込みたくなるような人もいるにはいるが…。

(上毛新聞 2004年12月5日掲載)