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桐生文化史談会理事 神山 勇さん(桐生市菱町)

【略歴】桐生高卒。家業の建具職を継ぐ。非行少年の更生に向けたBBS運動にかかわり、76年から保護司を務める。生涯学習桐生市民の会会員。

橋を架ける


◎供養塔に人々の労偲ぶ

 関東の屋根といわれる山々を背負い、水源を抱える本県は、坂東太郎に上毛三山を穏やかに映すような流れは少く、荒々しく流れている。県内の多くの河川は、一歩踏み入れれば人々を寄せ付けない流れが多い。川の対岸へ渡る方法として、最も手っ取り早いのは川越しだった。今では考えられないが、橋との間隔が離れた所などは五十数年前まで、日常生活の中に川越しがあった。

 橋の起源は有史以前にさかのぼる。動物たちが川や谷を渡る手段として、倒れた樹木やツルを橋として使用していた、と思われる。こうした自然の橋から、人類の生活上、対岸へ移動する必要から人工の橋が生まれた。身近な素材を使い、あるいは丸太材や加工した板を渡し、川幅の広い所では中継ぎ場所を設けて、より長い橋を架けられるようになった。板橋は板の端を針金で束ねて土手のくいなどでつなぎ、出水時は流れに逆らうことなく土手側に寄り、水位の下がるのを待って再度架橋した。

 架橋は季節にも左右され、水量の少ない冬季に工事量が多かったようだ。現在は機械が作業の中心だが、ちょっと時代をさかのぼれば、手仕事が頼りだった。架橋するのに少々遠回りになっても、川幅の狭い地形で選んで経費を節約した。橋の長さを短くするため土盛りし、土手を築いたりした。架橋技術も木橋の時代が長く続いたが、洪水のたびに多くの橋が流失あるいは破損し、木製の欠点である腐敗が進み、管理者の労も多かったようだ。

 木橋が圧倒的に多かった数十年前は、その橋を利用する地域住民が毎年のように総出で橋普請という勤労奉仕を行い、大切に生活の橋を守った。また、橋が流失すると、架橋のための費用を算定して寄付金集めが大変な時代もあった。桐生市菱町には、明治七年の架橋寄付帳が保存されている。流れた橋の残がいを地域住民が下流の浅瀬まで捜し、遠い所まで足を延ばした。鉄道を利用して捜しに行った地域もあった。残がいを集め、再度利用した。

 現在主流の素材は鉄材やコンクリートで永久橋といわれる。鉄材製は鉄道の歴史とともに外国製が輸入された。県内にも昭和の末まで使われた鉄橋が東武伊勢崎線・羽生―川俣間の利根川で使われていた。一般道では鉄材やコンクリートのほか、その両素材を使った橋が大正年間に入ってから造られた。川幅の狭い用水路や神社の太鼓橋は、江戸時代から石橋が多く架橋されている。

 橋は「霊が宿る」といわれ、完成すると神事が行われた。本県では明治時代からと思われ、三代の夫婦と神官が渡り初めをする習慣がある。仏事と思われる習わしは今はないが、橋の名が付く供養塔が残されている。県内でも「橋供養塔」のほか、「石橋供養塔」「道橋供養塔」の三種類が数多く保存されている。単独の塔もあるが、正面が仏様で側面に「供養」の文字を刻んだ塔も見られる。県内最古の供養塔は新里村にある「元町橋供養塔」で、元禄十四年の建立。こうした供養塔の前に立つと、命がけで橋を渡し、それを守ってきた人たちの苦労が偲(しの)ばれる。

(上毛新聞 2004年12月4日掲載)