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県児童養護施設連絡協議会長 田島 桂男さん(高崎市下豊岡町)

【略歴】群馬大(古代史考古学専攻)卒。高崎市中央公民館長、市南八幡中・並榎中校長、市教育研究所長を歴任。児童養護施設希望館施設長、県福祉審議会委員、高崎市史編さん委員・同専門委員、育英短大教授。

浅間山の噴火


◎歴史に学び備えよう

 九月一日、夜になって突然、鈍いドーンという音とともに家が横揺れした。しばらくして、浅間山の噴火によるものであることが分かった。幸いにも中規模噴火だったが、それ以降、数十回の噴火が数えられている。今のところ最大が中規模爆発程度で、何とか大事に至らずにいる。それでも地元嬬恋村を中心に、降灰砂によるキャベツなどの野菜類に及ぼした被害総額は六億円に上るといわれている。

 歴史上、浅間山は過去三回の大噴火があり、その都度、東方へ向けて大量の軽石粒を降らせた。一回目は弥生から古墳時代になって間もない時期、三世紀後半から四世紀初頭ごろの噴火。二回目は平安時代後期、天仁元(一一○八)年、三回目は江戸時代後期、天明三(一七八三)年の噴火である。

 古墳時代初期の噴火による堆積砂層は、火口から四十キロ以上も離れた高崎市内で厚さ二十センチほどになる。降下当時は五十センチほどの厚さと推定されていて、農地は長年にわたって耕作不能の状況であった。

 天仁元年の噴火は、中御門(なかみかど)の右大臣藤原宗忠(ふじわらのむねただ)の日記『中右記』に「浅間の峯は今年七月廿二日猛火が山を焼き、煙は天まで達し、砂礫(されき)が国内に満ちあふれ、田畑が全滅してしまったと上野国司が報告して来た」と記されている。このときの砂礫層は、高崎市あたりで厚さ十五センチ、降下当時は約二倍の三十センチはあったと推定されている。噴火被害の記録はこれ以外になく詳細は不明であるが、「国内の田畑全滅」は決して過大報告ではない。

 天明三年の噴火は、絵図や諸記録が残されていて、よく知られている。山ろくの鎌原集落を溶岩流、熱泥流が四百七十七人の人々をのみ込み、吾妻川にあふれて流下。さらに利根川に流入して川をせき止め、その後の雨と川水によるダム決壊と同様の二次災害をもたらした。吾妻、群馬郡(北群馬郡、渋川、前橋、高崎を含む)下で家屋千二百六十五軒が倒壊、千三百七十七人の死者を出し、耕地を荒らして大凶作を招いた。この年以降、一揆(いっき)が急増している。

 また、空高く舞い上がった火山灰が、偏西風に乗って北半球を覆い、遠くヨーロッパ大陸の太陽光線を遮蔽(しゃへい)して大凶作をもたらしてもいる。浅間火山の噴火による影響は、一七八六年に始まるフランス革命の一原因ともいわれている。

 北海道の有珠山(うすざん)、九州の雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)、そして東京都の三宅島の噴火は記憶に新しい。特に三宅島は、まだ人が住める状況にない。上信国境に近い位置にある浅間山に関しては、すぐ近くを新幹線や高速自動車道も走っている。また、建設機械が発達して、浅間山のすぐ近くに大工場や住宅地ができている。

 浅間山噴火の歴史を振り返りつつ、さまざまな噴火災害規模を想定し、住民への周知も含めて災害に備えておくことが大切であろう。

(上毛新聞 2004年11月2日掲載)