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前太田市教育長 正田 喜久さん(太田市八幡町)

【略歴】太田高、早稲田大卒。太田市商、伊勢崎東高、太田高の各校長などを歴任し、1997年7月から昨年7月まで太田市教育長を務めた。著書に『知の風に舞え』『新田・太田史帖』などがある。

高山彦九郎から学ぶ


◎直向きに取り組もう

 高山彦九郎研究会の会長を仰せ付かって、間もなく一年になります。高山彦九郎といっても、高校の日本史教科書十二種のうち、名前だけですが記載しているのは二種しかない状態なので、子供たちはその人と業績を教えてもらえず、知らないのは当然です。

 戦前の教育を受けた方々は、軍国主義と皇国史観に基づく国語、歴史、修身などで尊皇思想家としての一面のみを教えられていたので、名前だけはご承知の方は多いと思います。特に戦後は、彦九郎が林子平、蒲生君平と並んで「寛政の三奇人」と言われたので、狂人や変人者扱いをされ、超国家主義者として嫌われ、無視され、忘れられてしまい、研究もされませんでした。

 確かに、彦九郎は反体制派の人物なので、関係史料が少ない上に生地の新田郡細谷村(現太田市細谷町)に定着せず、その上、子弟を教えたり著述したりした学者や教育者ではありません。しかし、彦九郎は上杉鷹山の師である儒学折衷学派、細井平洲の門人として実践躬行(きゅうこう)の大切さを学び、一部の武士による武断政治でなく、天皇中心の文治政治の体制を復興すべく多くの人々と交わり、ネットワーク作りのために各地を巡りました。

 その折、耳目に触れた各地の民情、政情、民話、伝説、地名、地誌をはじめ、交流した人々のこと、神社参拝や遺跡訪問、義人、節婦、孝子のことなどを詳細に記した多くの日記を残しています。現在、この日記は当時の自然地誌、人物観、社会経済等の状況を知る上で貴重なものとして見直されています。

 「今なぜ、高山彦九郎を研究するのですか」と、よく質問されます。これに対し、こう答えています。明治維新の先導者であり先駆者である郷土の偉人が、尊皇思想家の一面のみが強調され、しかも封建社会の歴史上の一人物としてのみ扱われ、関心をもたれていないのは残念です。人間彦九郎を多角的、実証的、科学的に研究し、人物、考え方、行動、果たした役割などを明確にすることは、われわれの責務であると考えるからです。

 研究してみると、本当の彦九郎はスケールの大きい偉大な思想家、社会改革家、歌人であることが分かります。研究のもう一つの目的は、彦九郎の生き方を学ぶことです。四十七年の人生の大部分を、ただひたすら「経世済民」を目標において、国のため人々の幸せな暮らしのために、直ひた向きに行動したことを知ることは大切であるということです。

 先日のアテネ五輪やパラリンピック、高校野球で見せた直向きに全力で戦う様子は、人々に大きな感動と勇気を与えてくれました。しかし、多くの子供たちは豊かな社会の中でハングリーやチャレンジといった精神を失い、夢、目標、期待といったものを持てないでいるように思います。そこで、子供たちに何か一つのことに直向きに取り組む機会を作ってやり、このような態度を身につけさせて限りなく前進させたいものだ、と心から願っています。

(上毛新聞 2004年10月24日掲載)