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◎連綿という言葉大切に いま、私の掌てのひらに一つの白い湯ゆ呑のみがある。 疲れたとき、書けないとき、描き迷っているとき、そして一つの「もの」ができたとき、熱い茶を掌に包み、しみじみと白い「栄造さんの湯呑」と語らう。 山口県在住の師であり、友でもあるYさんから「栄造さんの湯呑を差し上げましょう」と言われた。誰の作にもかかわらず萩焼の好きな私は、その湯呑の届くのを楽しみにしていたが、箱はあるのだが中身の湯呑が見つからないという。一年がたったころ、ひょんな所から湯呑が見つかったと言い、程なく湯呑は私の元へとやって来た。何の変哲もない、わずかに窯変のピンクが見える、ただそれだけの白い湯呑であった。ただ不思議なのは、姿からは見えない力を秘めているように思えたことである。 いつしか私は、絵や図案、原稿を書くときなど必ず、この湯呑をそばに置くようになった。そしてこの湯呑に、ときには励まされ、しかられながら「伝統」という一筋の道を歩く決心のようなものがついたのである。 栄造さんとは三輪栄造さんのことで、十一代三輪休雪さんの二男、休和(十代休雪)さんの養子である。オブジェ制作の後、温みのある穏やかな茶陶へ進んだが、平成十一年に逝去(たぶん五十歳代)。これからであったろう、まだまだ仕事もしたかったであろう。そんな無念さを秘めながらも、迷いのない澄心の湯呑である。 この湯呑をYさんからいただくまでは「栄造」の名前すら知らなかったのである。その見ず知らずだった「栄造さんの湯呑」を掌にして思う。「私は生きている、まだまだ仕事ができるのだ…」と。数々の作品を残したかもしれないが、栄造さんは永遠にろくろに向かうことはないのである。 道こそ違うが、栄造さんに及ぶべくもない。この白い一つの湯呑は、私の身辺にあって励まし続けてくれるだろう。 物には出合いというものがある。作品にも出合いがある。「栄造さんの湯呑」も出合いである。 この欄を担当させていただいたのも出合いであり、その出合いがもう一度、自分の来し方を返り見て、行くべき道を定めてくれた、そんな気がしてならない。 前に書いたことをなぞるが、伝統と名の付くものを職業とし、伝統と名の付く文芸や芸能というものに手を染めてきた半生である。そんな中で確信したのが伝統というものを消してはいけないが、そうたやすく伝統というものは消えていくものではないということである。 結論付けるならば、伝統○○というものはどの分野にせよ、過去、現在、未来というものを背負っている。そして、そのどれをもおろそかにしてはいけない、ということである。「連綿」という言葉を大切にせよ、ということでもあるのだろう。 (上毛新聞 2004年10月17日掲載) |