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◎話すと教えるとは違う カナダ北部出身という人が職探しに英語教室にやって来た。発音が変で聞き取りにくいのは出身地のせいかと思った。「違うよ、あの人はジャマイカで生まれ育ったから、ちゃんとした英語もしゃべれないんだ」とアメリカ人の夫が判定した。青い目の人が皆、英語が話せるとは限らない。英語を話さない白人も大勢いる。 インターネット等で外国人教師を募集すると、応募数は百を超える。しかし、多くは稼ぎながら日本体験をしたがる人で、先生としてのキャリアのある人は少ない。書類上立派な経歴の持ち主でも、面接すると問題があったり、チャーミングでいい人でも教え方を知らなかったり、よい外国人教師を探すのは婿探しと同じくらい難しいと、よく思う。 宣伝力もないのに、英会話教室を二十五年続けられてきたのは、優秀で人格的にも信頼できるネーティブティーチャーたちとの出会いがあり、その先生を慕ってくる生徒たちの支えがあったからだが、長い年月の間には人選に失敗して大変なダメージを被ったこともある。何よりも辛いのは、個人の自由を優先する欧米の考え方と、仕事を重んじる日本的常識のはざまに立たされる時だ。 個人的チャンスや事情を優先して動く西洋的な生き方は、仕事に忠実な日本人にとっては耐えられないことなのだ。それでも人と人との約束や誠実さは万国共通で、人格のできている人だったら契約はきちんと守り、仕事もまっとうしてくれる。ただし、優秀な人ほど上昇志向で、若いアメリカ人の先生だったら一、二年働いて大学院に戻り、さらに博士課程へと進む先生もいることを忘れてはならない。 数年前のことだが、アメリカの大学院で英語教育法を学んだ若い日本人女性が来た。発音もよく素敵な人だったが、外国人志向の強い群馬では仕事も少なく、東京に移った。翌年、フランスのグルノーブル大学で英語を教えることになったという電話があった。「アメリカ人ではないのに、なぜそんなポストがつかめたの?」と聞くと、万国共通語としての英語を教えるのはネーティブでなくてもよいという卒論が高く買われたのだという。 確かに、英語を話すことと教えることは違う。外国語習得の努力を重ねてきた者だけが教えられることも多々あるのではないか。外国人教師を重視するあまり、ひざ元の貴重な人材を逃してはいないだろうか。 中国の小学生は毎日、英語を習っている。教えているのは中国人自身だという。タイやバリ島では物売りでも英語を話す。ちまたに旅行者があふれ、異文化交流が日常の風景となっているからだ。アテネ五輪で目立った日本選手の活躍は、最近欧米で高まっているという日本への関心に火をつけることになるだろう。豊富な観光資源や田舎風景の残っている群馬の魅力を世界に発信してはどうか。気楽に話せる、話さなければならないといった環境こそが、最高の教師といえるからだ。 (上毛新聞 2004年9月6日掲載) |