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高崎商科大学特任教授 硲 宗夫さん(神奈川県横浜市)

【略歴】大阪大大学院修了。毎日新聞記者に。定年後は評論家。和歌山大経済学部教授を経て2001年から高崎商科大教授。定年により4月から特任教授。著書に『悲しい目をした男 松下幸之助』など多数。

早川徳次さんのこと



◎関東大震災で再起図る

 “悔い”が残っている。新聞記者のころ、シャープの創業者・早川徳次さんに大火やけど傷の痕(あと)を見せていただこう、と思いながら、早川さんに「服をぬいでくれませんか」とは言い出しかねた。関東大震災のとき全身に火傷を負い、無残な傷痕があると、聞いていた。震災の証拠を見損なって、奇妙な懐かしさと、“あと一声”が出なかったもどかしさの記憶がよみがえる。

 早川徳次さん(一八九三―一九八○年)は東京の生まれ。貧困といじめの不幸な幼少時代を頑張り抜き、発明家として成功する。徳尾錠(今のバックル)とシャープペンシルを発明し、自ら企業化した。経営は順調。従業員は二百人に達した。順風満帆である。

 一九二三(大正十二)年九月一日の正午前、すさまじい衝撃が襲い、建物は次々に倒壊した。近所にいた早川さんは、はうようにして戻る。東京下町の自宅と工場はそのとき無事だった。まず従業員を避難させ、妻と二人の男の子を幹部社員に託して、早川さんは会社の行く末を見届けるため、たった独り残った。

 その後の早川さんは、荒れ狂う火災の中を逃げまどい、何度も川に飛び込み、潜っては火災を避け、やっとの思いで生き延びた。焼け野原が広がり、黒焦げの死体がころがっていた。

 発見された妻は全身に火傷を負い、息も絶え絶えだった。川に避難したときに子供は消えた。妻は子供の名前を叫び、死んでいった。

 早川さんは大阪に移る。取引先にだまされた、煮えくり返る思いをバネに、震災の翌年、早川金属工業研究所(シャープの前身)を設立、再起を図った。

 技術開発に力をいれた。「ライバルに真似(まね)をされるような製品をつくれ。われわれは常に先頭を走っていこう」と。ラジオ、白黒テレビ、カラーテレビ、電子レンジ、電卓、液晶などシャープはわが国の第一号製品を生み出した。量産・量販型の経営をあえてとらず、小ぶりに見えて、結局は大輪の花を咲かせる。

 早川さんは福祉型経営の創始者である。戦前から身体障害者の雇用に努力してきた。施設の改良、安全の確保、教育訓練の手間など、莫大(ばくだい)な費用がかかったが、関東大震災の悲痛な体験の持ち主は決断した。早川さんのもとに教えを請い、たくさんの中小企業経営者が集まったのもうなずける。

 早川さんの事例は多くのことを教えてくれている。二つ挙げてみたい。

 その一は、当時は東京が壊滅でも大阪で再起できたが、東京一極集中の場合は東京に巨大災害が発生すると、避難と再起の寄りどころが乏しいことだ。巨大都市のリスク排除に万全を期したいが、“受け皿”地域の整備も欠かせない。首都機能の分散は、安全保障の中核的な課題である。

 その二は“温かい目”の経営がほしいこと。身障者も働いて自立していける仕組みを充実していきたい。“弱者”を足げにする乱暴な市場原理主義は異常ではないか。多分、長持ちしないと思うが、油断してはびこらせてはいけない。

(上毛新聞 2004年9月1日掲載)