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◎評価する第三者機関を 「自己責任」という言葉は、イラクにおける人質事件のとき以来、大いに話題となっている。この世の中で何かの仕事をし、行動を起こせば、そこに必ず責任が生ずる。行動の意図はともかく、人に迷惑をかけるようなことが起これば、その結果、責任を取らざるを得ないのは当たり前である。 民間企業では、勝ち負けははっきりしているため、行動を起こさないことを含めた結果責任がいつも問われている。利益が上らない場合には、社員からトップに至るまで、それぞれの自己責任が問われる。人間社会では成果が正当に評価されなかったり、結果責任が問われない状態では、やる気をなくし停滞してしまうものらしい。従ってどんな企業でも、結果の評価がさらに次の努力を奨励するようなインセンティブ(刺激)を与える仕組みづくりに必死である。 結果責任を常に問われていると、高く評価されて、ますます意欲を示す者がいる反面、打ちひしがれてやる気をなくす者が出る。また失敗を恐れるあまり、改革や変化を嫌う傾向が強くなり、大過なく過ごすことが目標になったりする。その功罪は別として、残念ながら今の社会では意欲が出る者を育てていく体制しか生き残れないのである。 多分、政治家や官僚の行なう役所の仕事だって同じはずである。しかし、多くの人たちはこの世の中で、結果責任が問われない唯一の仕事が役所の仕事であると見ている。確かに、毎日の仕事は法律にのっとって行われているため、結果責任が法的な糾弾を受けることはないであろう。しかし、これだけ難しい判断が要求される中、多くの試行錯誤が行われ、常に失敗の危険がつきまとっている社会で、役人だけが「当方に絶対に落ち度はありません」と繰り返し言い続ける社会は、やはり異常としか言いようがない。 思い切った方針転換ができず、先送りばかりで手遅れになっているケースは枚挙にいとまがない。国費が関係する公共事業や補助金を使う事業が甘くなるのも、結果責任が問われない確固たる体制ができているからなのであろう。競争力を失わせた農業政策、土地バブルと不良債権を招いた金融政策、多額の財政赤字と国債発行、非効率な公社や国営事業、さらには最近話題の北朝鮮政策や年金問題で露呈した無責任体質と、後から見れば結果責任を問われてしかるべきことが多い。 ある意味では、小泉内閣の規制緩和や民営化に象徴される構造改革も、役人の自己責任のなさや結果責任を問えない体制の再構築に軸足を置いているように見える。しかし、どうもこれまでの失政の反省はほとんど聞かれないし、今後もまた同じ失敗を繰り返す体質は残りそうだ。 この際、政治家や政府にとって厳しいことかもしれないが、過去の政策や事業を厳格に評価する強力な民間の第三者機関を設立してはどうかと思うのである。そんなことをしても結果論に陥るとか、官僚の改革意欲をそぐとか、日本人の国民性に合わないといった反論もあるかもしれない。今の日本の置かれた状況は、そんな悠長なことを言っておれるほど安泰ではないのではなかろうか。 (上毛新聞 2004年8月25日掲載) |