視点 オピニオン21
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写真家 大橋 俊夫さん(埼玉県川口市)

【略歴】高崎市生まれ。高崎高、日大芸術学部写真学科卒。講談社入社後、『FRIDAY』副編集長などを経て退職。日本雑誌写真記者会賞など受賞。昨年、写真集『尾瀬―空・水・光』を出版。

五輪の黄金時代



◎体操日本の復活を願う

 日本の体操チームが最初に五輪出場したのは、一九三二年のロサンゼルス大会。後に日本体操協会の黄金時代に会長を務めた近藤天氏をはじめとした六選手だった。だが、現地入りして、あん馬の練習を始めたところ、隣で練習していたフィンランドの選手が不思議そうな表情で日本選手の練習を見つめていた。

 そこで、近藤氏が顔見知りのアメリカ選手に聞いたところ、「君たちの技は、三十年以上も前に流行したものだ」と言われた。時代遅れな「振り子式フランク旋回」だった。そこで、日本選手は見よう見まねで新技に取り組んだが、うまくいかなかった。日本選手団の演技になると、会場から失笑が漏れた。日本選手はまさにピエロだった。

 こんな状態の初参加であったが、六〇年のローマ五輪から七六年のモントリオール五輪まで男子団体は五連勝、世界選手権も五連勝と、通算十連勝、二十年間無敗の日本男子団体の黄金時代を築いた。最初のステップとなった近藤元会長ら六選手の初参加は、次第にステップアップし、黄金時代の試金石となった。

 十三回にわたる五輪取材で、私が体験したベストマッチはモントリオール大会だった。エースの笠松茂選手が盲腸炎にかかり、現地で欠場。日本男子団体の壮絶な戦いが始まった。「われわれのチームは果たしてどうなるのであろうか。男子体操が負けたら、今後の体操はどうなるのだろうか。栄光の連勝記録の終止符を、われわれの手で打たなければならないのかなど、数限りない暗雲が胸をよぎった」と、この大会に選手として出場した加藤沢男氏は回想録で述べている。

 一方、監物永三選手はそのピンチの中で、五輪初出場の藤本俊、梶山広司両選手や、笠松の代役となった五十嵐久人選手に極力冷静な心で臨め、とアドバイスした。団体戦の場合、一人でも動揺すると悪い影響を与える。規定でライバル、ソ連にリードするつもりが、逆にリードされてしまい、自由演技つり輪で藤本選手がひざを故障して棄権、五人で戦うという最悪の事態となる。このときも各選手たちは負ける気がしなかったという。七四年の世界選手権でも五人で死力を尽くし、優勝した経験があったのである。

 モントリオール大会も笠松、藤本両選手の分まで一致団結した末の逆転優勝である。体操団体戦は、六人一組で各種目を戦う。各種目のベスト5の得点で争うので、六人で戦えば一人のミスはカバーできるが、五人となると一回のミスも許されない。

 そのころの日本チームは代表選手になれば、どの選手でも世界一になれる可能性があると自信を持っていた。日本の代表になる方が、五輪で勝つより難しいとされていたのである。

 その選手たちの不屈の精神力や根性、さらに窮地を乗り切る方法について、加藤氏に質問したことがある。加藤氏は「常に最悪の備えをしておかねばならない。確かに逆転はしたものの、そういった状態にもっていったのは、われわれなのであることを忘れてはならない。自分たちの責任は自分たちでとる」と答えていたのが印象的だった。アテネ五輪が間近に迫った。体操日本の復活を願いたい。

(上毛新聞 2004年8月2日掲載)