視点 オピニオン21
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エフエム太郎番組制作スタッフ 高山 栄子さん(太田市東別所町)

【略歴】東京都生まれ。太田南中卒。民間会社勤務を経て主婦業に専念していたが、1990年から多くのボランティア活動に携わっている。

いじめ



◎何でも話せる環境を

 久しぶりに家族写真を撮る。といっても、娘はアメリカなので息子との三人だが、めったに帰省しない息子の「学位証書を持って帰ります」の一言にそれとばかり、スタジオに記念撮影を申し込んだ。カメラマンの「はーい、こちらでーす」。ハトでも出るかな? に「でまーす」。思わず笑みがこぼれた。

 先日、山形の体育マットで窒息死した生徒に対する賠償責任の判決が出た。金銭が目的の訴訟でないことは十分理解できる。ご両親は、事件から十数年をどんなお気持ちで過ごされたか、これからもその傷の癒やされることはないであろう。

 二人の子供に恵まれた私は「人にされて嫌なことはしない」「人にしてほしいことは自分でもする」。それが子育ての基本だった。幸い、娘は元気に過ごし、息子はというと、通学の黄色い帽子は泥だらけ、下ろしたての傘は骨がばらばら。決まって自分が汚した、壊した、ごめんなさいと言う。私も決まって「気をつけてね」の一言だったが、小学四年生の時、風呂であざを見つけて問いただすと、「誰にも言わないで、先生にも友達にも…」。初めて、いじめを知った。

 泣きじゃくりながら「死のうと思った。でもそんなことしたら、お母さんが…」。愚かな母はあふれ出る涙を湯舟の湯に隠し、気づかなかったことを詫わびつつ、彼の話を聞くのが精いっぱいだった。私は行動した。ある日、いじめたという子が訪ねてきて「意地悪されても、こづかれても逆らわない高山君をいじめないと、今度は仲間から自分がいじめられてしまう。だから、いじめてしまった。ごめんね」と謝ってくれた。幸い、たくさんの方のお力と協力を得て、無事に中学へ進学。

 しかし、今度は部活が待っていた。あれこれ書き出すのも疎ましいことだが、それは教師による言葉の暴力だった。耐えた、ただ耐えた。息子は何でも話してくれて、それが彼の解決策であったのかもしれない。それが、まさに大事なことだった。

 高校生になってしばらくしたとき、ふと「空って青かったんだね」と言う。うつむいて過ごした九年間の自分の視線は、灰色のコンクリートだったと。ありがたいことに、信頼できる先生や生涯の友を得た高校の三年間は、彼にとってすべてが宝物のようだった。大学では、廃寮寸前の駒場寮で過ごした二年間に友情と自律を学び、本郷で研究のテーマを見いだして励んだ年月が、この博士号に込められていると思うと、感慨無量である。

 いじめは子供の遊びの延長、悪気はない、揚げ句にはいじめられる方にも原因がある等々、いつからそんな風潮になったのか、私は知らない。ただ言えることは、過去の出来事でなく、今こうしている間にも、たくさんのいわれなく傷ついた親子が戦っていることだろう。

 息子を囲んだ写真が出来上がった。優しくほほ笑む彼に一言、礼を言おう。「父の誕生日に花束をありがとう。宅配便に照れてましたよ。そして、あなたの母でありがとう、これからもよろしく」

(上毛新聞 2004年7月14日掲載)