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◎書店の再生で高めたい ぼくたちの頭の中にはそれぞれ独自の地図作製装置が付いている。知らない街を歩くと、この装置が働いて、街の実態を自分用に加工して保存してくれる。 京都というと碁盤の目状の道路形状がよく知られているけれど、自分の頭の中の京都地図は必ずしも碁盤の目になっているわけではない。街の中心部でも、あまり行ったことのない所はブランクになっているし、何度も訪れたことのある場所、これは人によってさまざまだろうが、例えば清水寺や周囲の三寧坂の辺りは、頭の中の京都地図に他の場所以上に鮮明に焼き付けられていたりする。 頭の中の地図には、いくつか目印(ランドマーク)がある。京都の場合なら寺院や神社が目印となって、その位置関係が地図の大きな要素となっている。「知恩院の南側」「銀閣寺から歩いて五分」というようにして場所が認識される。ある街をイメージすると、この頭脳都市マップが呼び出されてくる。その中にどのような「目印」がある町かが、その都市の印象を決定するように思われる。 ぼくの頭脳都市マップでは、書店が目印の一つになっている。本を読むくらいしか趣味のない人間だからかもしれないが、ぼくにとっては本屋のもつ意味はとても大きい。書店は単に書物の置き場であるのではなく、(店主によって選別された)知識の集積庫であり、だから民間直営の図書館でもあるし、ミュージアムの要素も持っているのではないか、と考えているくらいだ。よい本屋があるかどうかが、ある街の文化度のバロメーターである、というのがぼくのひそかな持論なのだけれど、皆さんはいかがお考えでしょうか。 駅のキオスクやコンビニで売っているような本しか手に入らない町には、ちょっと住みたくない。前橋市には煥乎堂という書店があって、高校生のころはよく出入りした。入り口の上には何やらラテン語の銘文が書かれていたし、気品の感じられる店内はとても気に入っていた。この建物を設計したのが白井晟一という著名な建築家であることを知ったのは、大学に入って建築を学んでからだが、ミュージアムとも見まがうような書店が自分の故郷にあるのは、とてもうれしかったことを覚えている。 ところが、久しぶりに帰省した折に立ち寄ったところ、通りの向かいに新店舗ができていた。白井晟一設計の書店は取り壊されこそしていないものの、一階は駐車場となっているようだった。書店が駐車場化するというのは、中心市街地の凋ちょうらく落の象徴のような事件だが、果たしてこのまま放置しておいてよいのだろうか。幸いなことには、赤レンガもラテン語のプレートもそのまま残されているようである。これを残したままで、何らかの有効利用は果たしてできないものだろうか。 シアトルでは、建設後二十五年たった建物はすべて歴史的建造物として保存の対象となるそうである。前橋市の文化度のバロメーターを高めた書店が、再生されることを祈りたい。 (上毛新聞 2004年6月5日掲載) |