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建築家・地域計画工房主宰 栗原 昭矩さん(伊勢崎市山王町)

【略歴】京都工芸繊維大住環境学科卒。横浜、前橋の設計事務所を経て、1998年独立。歴史的建物を生かした「地域づくり」や調査に取り組む。伊勢崎21市民会議座長などを歴任。

日光例幣使道



◎街道軸に地域間交流を

 前回、日光例幣使道の宿場町としての歴史性をまちづくりに生かすために活動を始めた「まちづくり玉村塾」について触れましたが、倉賀野で中山道から分岐した日光例幣使道は玉村宿を過ぎると、五料の関所を通り、利根川を渡って柴宿(現在の伊勢崎市柴町)に入ります。

 伊勢崎市でも玉村町に先立ち、平成九年から日光例幣使道の歴史性の再評価と活用によるまちづくりへの展開を目指した「例幣使街道まちづくり会議」が開催されています。これまで、勉強会に始まり「例幣使街道まちづくり構想」の作成、ウオーキングマップの作成、案内板の設置、さらに街道沿線の歴史資産等の調査が行われてきました。

 日光例幣使道ってどんな街道なのか。歴史研究家や興味のある方を除いては、その存在や歴史的位置付け、役割はあまり知られていません。朝廷から日光東照宮へ毎年幣帛(へいはく)を奉納するために派遣された勅使を例幣使と呼び、その通行のために整備されたのが日光例幣使道でした。朝廷の勅使が通行したことや、江戸ではなく日光へ向かっていたことなど、特異な性格を帯びています。

 また、その政治的重要性から江戸時代中ごろから道中奉行直轄の街道となっています。今で言う国道ですが、中山道、三国街道に続き、日光例幣使道も本街道扱いであったこと、すなわち群馬を通る三つの国道の一つであったことは、ほとんど知られていません。また十四あった各宿場には例幣使の宿泊・休憩のために本陣が置かれましたが、今にその姿をとどめる遺構はありません。その中で伊勢崎市柴宿にあった本陣は解体されていますが、唯一、その解体材は今も保管され、地元の方々による再生や活用を模索する運動も行われています。

 このように埋もれている地域の歴史性、歴史街道をまちづくりのために生かすことは容易なことではありませんが、住民の意識調査の中で次のようなコメントがありました。「柴町に嫁いで三十年、かつての宿場町としての歴史を持つこの町に暮らしていることを誇りに思います」。これは、まちづくりの核心に触れるものです。この誇りの種としての歴史街道の再評価と活用は、戦後、希薄化した「受け継ぐ」仕組み再生のための具体的な試みです。

 現在、例幣使街道まちづくり会議では、地域の史跡や名勝の個別案内板の設置を検討中ですが、地域の歴史性をいかに地域の人たちに伝え、いかに子供たちに伝えていくか、子供たちの原風景の中にいかに組み込むことができるか。これらは、人間性豊かで地域性あふれるまちづくりを進めるうえで、今私たちに課せられた大きな課題ではないでしょうか。今後とも、会議の継続的な活動に期待したいと思います。

 街道は柴宿を出ると境、木崎、太田そして栃木へと進みますが、いつの日か、例幣使道を軸とした地域間交流が結実することを、夢見ているのは私だけでしょうか。

(上毛新聞 2004年5月22日掲載)