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◎多く詠まれた伊香保嶺 万葉集巻第十四は「東歌(あずまうた)」二百三十首を収め、遠江国(とうみのくに)(静岡県)信濃国(しなののくに)(長野県)以東の歌を集めた集中最も特徴的な巻です。このうち九十首は詠(うた)われた国が分かっていますが、残りの百四十首は詠われた土地が特定できておりません。これらの歌がどのように集められ、誰の手によって、いつごろ、まとめられたかも正確には分かっていません。 巻第二十には防人(さきもり)の歌八十五首があります。防人の制度は、大化二(六四六)年の改新の詔に初めて登場し、筑紫(つくし)・対馬(つしま)・壱岐(いき)を防御するため東国農民を徴発し、守備に当らせる制度でした。防人が最初に配置されたのは天智三(六六四)年のことで、同二年八月、百済(くだら)救援のため朝鮮半島に派遣された倭軍(わぐん)が、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に大敗を喫し、国土防衛を迫られたのが発端でした。 防人の歌は、岳部少輔(ひょうぶしょうゆ)であった大伴家持(おおとものやかもがち)天平勝宝七(七五五)年、交代要員として難波(なにわ)に徴集された防人から集め、上司の橘奈(たちばな)の良麻呂(ならまろ)を通じて左大臣橘諸兄(もろえ)に上申したものですが、防人に徴発された東国農民の苦しみが理解されたのでしょうか、二年後、東国農民を防人に徴発することは廃止されました。 さて、東歌はその多くが恋の歌ですが、防人の歌は父母・妻子・恋人を偲(しの)ぶ歌が多く、故郷の山・川・風物を題材として詠んだ歌でした。足柄山・碓氷の峰から東の狭義の東国(関東地方)を見ると、その傾向が顕著に表れています。常陸(ひたち)の国(くに)は東歌・防人歌の双方で二十二首あり、その中の十四首に筑波山が詠まれ、国司として常陸国くに庁のちにょう在勤した高橋連虫麻呂(たかはしのむらじむしまろ)の歌を加えると、筑波山は集中最も詠まれた山となります。同様に 上野国(かみつけのくに)二十九首中九首に伊香保(いかほ)嶺ねが、相模(さがみ)の国くに十八首中十三首に足柄山が詠まれています。 東歌の冒頭の部に「筑波(つくば)嶺ねの新桑繭(にいぐわまよ)の衣きぬはあれど君が御衣(みけし)しあやに着き欲ほしも」「筑波嶺に雪かも降らる否をかもかなしき子ろが布乾(にのぼ)さるかも」があります。古代の衣料は葛(くず)・藤・楮(こうぞ)・生糸等から作りましたが、「新桑繭の生糸から作られた衣を着ることのできた娘は、裕福な家の子であったに相違ありません。 農民は葛や藤や楮の繊維から作った粗末な衣を着ておりました。関東地方は当時から養蚕が盛んで、租庸調の調に絹が含まれておりました。この万葉時代から長い間続けられた養蚕も昭和四十年代にすたれ、養蚕の神様として信仰を集めたつくば市神郡(かんごおり)の蚕影山神社は参拝に訪れる人もなく、さびれてしまいました。 本県は栃木県と並んで全国有数の雷発生地帯です。「伊香保嶺に雷鳴(かみなり)そねわが上へには故(ゆえ)は無(な)けども子らによりてぞ」と雷鳴を詠んだ歌があります。子供のころ、御荷鉾(みかぼ)山に発生した雷雲は、麦三束をたばねる間にやって来ると聞かされました。雷は昔も今も変わらぬ風物です。 足柄山は倭建尊(やまとたけるののみこと)時代から東国への入り口として知られてきました。万葉時代になると、東海道は東国への幹線道路として利用され、当時東山道に属していた武蔵(むさし)の国(くに)の防人も、足柄山を越えて難波に向かいました。武蔵国防人藤原部等母麻呂(ふじわらべのともまろ)は「足柄の御坂(みさか)に立たして袖ふらば家なる妹(いも)は清(さや)に見もかも」と詠い、妻の物部刀自売(もののべのとじめ)は「色深く背なが衣は染めましを御坂たばらばまさやかに見む」と詠いました。 (上毛新聞 2004年5月10日掲載) |