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◎英知を結集して突破を バブル経済の崩壊後、企業の倒産、リストラ、不良資産の処理、公的資金投入の文字が新聞紙上をにぎわし、不況の時代が続いた。が、企業の努力の結果でしょうか、最近ようやく、その種の文字が減少しているようです。 冬になると、必ず三月危機説が流れ、金融機関から融資を打ち切られて手形の決算ができず、売り上げの減少、損失の拡大、財政状態の行き詰まり、そして先の方針が立たず、倒産という選択を余儀なくされるケースが多い。やがて、春の陽気な季節を迎えるときに従業員が解雇され、職はもちろん希望も失い、家庭生活まで破壊されるような危機に直面する。倒産とは罪の大きな言葉である。 私も昭和三十四年四月、忘れ得ぬ不名誉な倒産解雇に遭遇した一人で、倒産の文字を見たり聞いたりすると、その都度、嫌なことを思い出す。当時は町中でも、事業の失敗による倒産は少なかっただけに、その影響は大きく、寂しい限りであった。そうした思いもあって、一刻も早く本格的な景気の回復を望みたい。 私は戦前の三年間、川崎市の軍需工場に勤務。一年間、兵役に服して終戦を迎えた。幸いにして復員し、元の会社を訪問したときに、リストラを通告された。理由は従業員を十分の一に縮少しての再建ということで、やむなく次の機会を待った。敗戦による犠牲と感じた。その後、運よく地元、松井田町の実業家からの推薦で、町の繊維会社に入社が決まり、働くめどがついた。 社長は東京日本橋で繊維の問屋業を営み、この地方の呉服商が取り引きしていた。戦後としては珍しく品質もよく、豊富な問屋として隆盛を極めた。さらに、原材料の生産から製品の販売までを計画。小諸、松井田、熊谷の三工場を手中に収め、これを整備して、昭和二十二年にT製糸株式会社を設立、操業を開始した。以来、十二年間、懸命な努力が続いた。にもかかわらず成績不振となり、繁盛していた問屋業も一服状態になった。 さらに、本社の経理の不始末から、国税局の脱税摘発という汚名を受けて以来、金融機関に不信を買い、資金繰りが極めて苦しくなった。また、昭和三十三年の生糸相場の大暴落による損失の拡大等があり、前述の通り、倒産、従業員の解雇となった次第です。 脱税行為は、経営者として言語道断。失格者のレッテルを張られても当然と考えたが、すでに遅かった。衣食住の衣の産業であり、地域産業と縁の深い日本の伝統的産業でもあったので、自分の選択に狂いはないと自信を持っていたが、経営者のつまずきはいかんともし難い。不可抗力とはいえ、夢も希望もどこへやら、妻と二人の子供が路頭に迷うとは、このことだった。 しかし、そのときは三十八歳。運が悪いといえば、それまで。まだ若く、働けば食べる程度の収入は得られるはずだ、二度とこのような姿になるまい、と戒める日が続いた。この体験によって、身に付いたのが、たくましく生きるための精神力と忍耐力だった。「継続は成功なり」。長年にわたり、守り続けている事業。企業家の方々には、この苦境を英知を結集して突破してほしい、と願っている。 (上毛新聞 2004年4月26日掲載) |