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写真家 大橋 俊夫さん(埼玉県川口市)

【略歴】高崎市生まれ。高崎高、日大芸術学部写真学科卒。講談社入社後、『FRIDAY』副編集長などを経て退職。日本雑誌写真記者会賞など受賞。昨年、写真集『尾瀬―空・水・光』を出版。

コマネチの挑戦



◎努力の結果は美しい

 五輪で女子体操の歴史が始まったのは、一九五二年のヘルシンキ大会だった。「白い妖精」といわれたナディア・コマネチ(ルーマニア)の出現まで二十四年もあった。

 私が取材した当時、傑出した存在はラリサ・ラチニナ(旧ソ連)とベラ・チャフラフスカ(旧チェコスロバキア)、それにコマネチだった。成熟した女性美を持った選手といえば、チャフラフスカとリュドミラ・ツリシチェワ(旧ソ連)。女性の本当の美しさを見せてくれて、とてもフォトジェニックであった。もう一人、東洋的なスマイルでチャーミングなネリー・キム(同)もよかった。

 メダル獲得数ではラチニナ、チャフラフスカ、コマネチがベスト3に入るが、ツリシチェワはあくまでも優美な選手だった。対照的なのがオルガ・コルブト(旧ソ連)。陽気で元気のいい彼女は、体操の芸術性と新しさをつくり、技の時代へのパイオニア的存在だった。成熟した女性では肉体的に高度な技が不可能となり、低年齢化によって技を高度化させていた。

 コマネチが登場した七六年のモントリオール五輪では、バレリーナのようなツリシチェワ、芸術性を伴うコルブト、そしてコマネチの戦いであった。

 作家の故・佐瀬稔氏と練習会場に下見に行った。ツリシチェワは女性特有の魅力にあふれていたが、コマネチの練習を見てびっくり。彼女はほっそりしていて、天性のバネ、柔軟性、バランス感覚、長い手足と、まさに体操用のボティーを持っていた。

 平均台では、足の裏に目でもあるかように宙返りするコマネチ。逆宙返りも見事で、他の選手と比べようのない安定感があった。まるでサイボーグのように見えた。いざ試合となると、いとも簡単に五輪史上初の10点満点をたたき出した。この大会で彼女は10点満点を七回も出し、金三、銀一、銅一のメダルを獲得した。わずか十四歳。驚嘆の一言につきる。

 当時の電光掲示板には「9・95」までしか表示できず、ルールが減点法だったため、「10・00」の表示は不必要だった。しかたなく「1・00」と表示。その時、ちょっと不満そうな表情をしたのが、コマネチの人間性が表れたシーンだった。次々に満点を出すので、プレスの間では「ミス・パーフェクト」の称号を与えていた。

 「彼女は一つの目的にひたむきに向かっていったことが、成功をもたらした。非凡であり、強い闘争本能を持って、練習の価値をよく知っていた。難度の高い技を修得するのに、自主的に全知全能を傾けた」。コマネチのコーチであるカロリーが会見で語っていた。

 その後、彼女は少女から大人への肉体的変化に遭遇し、七八年の世界選手権(仏・ストラスブール)では「これで体操ができるのか」とわが目を疑った。バストも膨らみ、体に脂肪がついていたが、それでも種目別で金銀を一つずつ獲った。

 七九年の世界選手権(米・フォートワース)では団体で金を獲ったものの、それ以後は手首のけがで棄権。それを克服して、八〇年のモスクワ五輪で再会できたのはうれしかった。「天性プラス努力の人」であったコマネチ。努力した結果は、カメラを通しても美しかった。

(上毛新聞 2004年4月18日掲載)