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◎150年ごとに修復を 渋川方面から吾妻郡に入って、真っ先に目に入る切り立った岩肌の山が、標高七八九メートルの嵩たけ山やまです。新緑に山が映える五月五日の嵩山祭りでは大勢の人たちでにぎわい、中之条町のふるさと公園のシンボル的な存在になっています。 嵩山は古代から霊山として人々の信仰を集め、室町時代中期に子持村の白井城の支城として開城し、その後、吾妻町の岩いわ櫃びつ城の出城として重要視されました。戦国時代には、真田氏に攻められて岩櫃城は落城。城主斉藤氏の末子、十八歳の若武者、斉藤城じょう虎 こ丸まると一族は嵩山城に立てこもりますが、一五六五年、激戦の末に一族は岩から身を投げて自決したと伝えられています。 江戸時代になると、この戦国哀史に霊場巡礼の民衆化と行楽化が進んだことが絡んだのでしょうか、嵩山に坂東三十三観音の石仏が建立されました。その後、西国・秩父観音が建立され、嵩山百番観音となりました。それは、嵩山城が落城した一世紀半後の一七一二年のことです。 嵩山の観音群は江戸の僧の指導で、地元の人たちが中心になり、町の有志によって建立されました。嵩山坂東三十三観音は山中に点在。観音像は石造の高さ一メートル内外の野仏で、オーバーハングしている岩の下など、落石や風雨による損傷防止に効果的な場所に安置されています。 建立後、一世紀半を経た江戸時代末期の一八五四年には、嵩山百観音のうち四十三体を修復したという記録が残っています。この再建整備を経て現在に至っているわけですが、現況の観音像の中には頭部が欠落してしまった像もあります。自然現象による転倒などに起因するものか、あるいは、明治政府になっての仏教抑圧、廃仏毀きしゃく釈と関連あるものか、それは定かではありません。 しかしながら、嵩山の観音群が戦国の世の落城に伴う悲話の言い伝えをもとに建立されたといわれ、当時をしのぶ貴重な歴史的遺産であることには間違いないだろうと思います。 江戸末期の大修復から再び一世紀半の時を経た現在、今を生きる者として、嵩山観音の調査と文化財としての認知、そして石仏の修復計画とその実施を、地域の声として提言したいと考えます。 嵩山は中之条町周辺の人々にとって、ふるさとを思うシンボルの山です。また、地元の五反田地区の人たちの嵩山を思う気持ちは熱いものがあります。幸いにも、中之条町には現在、若くて腕の良い石仏彫刻師も育っています。 修復にとって、現在の経済状況の悪さが負の要素ですが、江戸の建立当時は凶作が続いた貧しい時代だったと記録されています。当時の民衆の信仰心というだけでは計り知れないエネルギーを見習いたいところです。 戦国悲話、観音群建立、江戸の修復、平成の修復、その史実が百五十年ごとの間隔に結ばれて、さらに百五十年後の未来の人たちに文化遺産の修復整備を託せたら、素晴らしいことではないでしょうか。 (上毛新聞 2004年3月27日掲載) |