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◎歌碑が感傷をそそる 万葉集は宮廷替歌、宴席の歌、旅の歌、挽歌(ばんか)、相聞(恋)歌等から成り立っております。挽歌の中には、政争に巻き込まれて落命した皇子たちの歌もあり、それらの由縁の地に歌碑が建てられ、今も訪れる人々の感傷をそそっております。 ▽有馬皇子(ありまのみこ) 病気療養のため紀温湯(きのゆ)(和歌山県・白浜温泉)へ行った孝徳天皇の皇子有間は、帰って伯母の斉明天皇に湯の効用を話しました。それを聞いた天皇は、さっそく皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らを伴って紀温湯に湯治に出かけました。その留守中、有間皇子は蘇我赤兄(そがのあかえ)の陰謀に乗せられて謀反を計画しましたが、捕らえられ、天皇や皇太子の滞在する紀温湯に護送されました。途中、はるか紀温湯を望む岩代(和歌山県南部(みなべ)町)の地で無事、釈明が終わることを祈って皇子は二首の歌を詠みました。 岩代の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへりみむ(岩代の浜松の枝を引き結んで、幸い無事に釈明が終わったら、また立ち帰ってこの松を見よう) 万葉の昔、草や松の小枝を結んで幸を祈る習俗があったのです(他の一首は略)。 紀温湯で皇太子の尋問を受けた有間皇子は、大和への帰路につきましたが、途中、藤白(ふじしろ)(和歌山県海南市藤白)の地で皇太子の命を受けた者の手によって絞殺されました。 まばゆい南国の日の光が注ぐ、南部町岩代の海辺の白浜温泉を望む地に、徳富蘇峰揮毫(きごう)の「有馬皇子結松記念碑」が建てられ、裏面に皇子の歌二首が刻まれております。海南市藤白には有間皇子遺跡があり、近くには皇子を祭る藤白神社があって、人々の尊崇を集めております。 ▽大津皇子(おおつのみこ) 大津皇子は大海人皇子(おおあまのみみこ)(後の天武天皇)と大田姫皇女(おおたのひめみこ)(持統天皇の姉)との間に生まれた皇子で、二歳年上の姉に大来皇女(おおくのひめみこ)がおりました。皇子が五歳の時、母の大田姫皇女は薨去(こうきょ)し、伯父であり祖父でもある天智天皇にかわいがられて育ちました。壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即位しましたが、皇后に妃(きさき)、讃良皇女(きららのひめみこ)(後の持統天皇)を立て、天皇・皇后による共治体制を始めました。十四歳になった大来皇女は斎宮として伊勢に移り、神宮に奉仕する身となりました。たくましい青年皇子に成長した大津は、二十一歳で政治に参加することになりましたが、このことが皇后にとって、わが子、草壁皇子(くさかべのみこ)の登極を脅かす存在と映るようになりました。天武十五年九月、天皇は崩御。十月二日、大津皇子は謀反の廉かどで捕らえられ、翌三日に死を賜わり、 ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ(磐余の池で鳴いている鴨を見るのも今日を限りとして雲のかなたに隠れいくのであろうか) と辞世の歌を詠んで自殺しました。二十四歳でした。大津皇子御陵は大和盆地のどこからも望むことができる、奈良県と大阪府境の二上山(ふたかみやま)にあり、姉、大来皇女は弟をしのぶ歌を詠みました。大津皇子辞世の歌碑は、皇子が住み、自殺した語訳田(おさだ)に近い奈良県桜井市吉備(きび)の吉備池北堤にあります。 (上毛新聞 2004年3月16日掲載) |