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◎輝いて見えた若者たち 毎年一月十七日が近づくと、大惨事となった阪神・淡路大震災を思い起こす。私の元勤め先の上司もあの日、一瞬にして命を落としてしまった。間もなく九年がたとうとしているが、五千五百人を上回る犠牲者と途方もない損害を記録したこの大きな天災を忘れることはできない。 平成七年一月十七日朝、テレビから崩れ落ちた高速道路の映像とともに大災害の第一報が飛び込んできた。大変な驚きとともに、これから自分が何をしたらよいのか頭の中が空白になり、足がすくんだ。 当時私は前橋青年会議所に所属していた。時の理事長の即断により、市民の皆さんに呼びかけて援助物資を集め、被災地に送る活動をまず開始することになった。特設ブースを設けた県民会館前に、ペットボトルの飲料水や毛布、防寒具、食料品等膨大な物資が市民の皆さんから届けられた。 その量は大型トラック三台分に及んだ。義援金も二百三十万円を超える金額が集まった。中には焼酎の瓶に口までいっぱいため込んだお小遣いをそのまま持ってきて「これ、送ってください」と申し出た小学生もいた。責任の重さを痛感した。あの時、前橋市民、いや日本国民全体が「これは何とかしなければ、困っている人を少しでも助けよう!」と一体となっていたような気がする。 二月十日から三日間、私を含めて五人の前橋青年会議所のメンバーが災害支援ボランティアとして、現地に入った。当時電車は西宮駅までしか復旧していなかった。電車の車窓から完全に倒壊した多くの家屋を目撃し 、災害の大きさにあらためて震えがきた。 その日の宿舎として指定された西宮商工会議所の建物も一階がつぶれて傾いており、早々に避難命令がでる始末であった。三日間のボランティアは、全国から集まった援助物資を避難先の小学校等に運搬し、分配する業務であった。 小学校の校庭に到着して驚いたのは、二十歳前後の大勢の若者たちが被災者と一緒に学校に泊まり込んでボランティア活動を行っていたことであった。富山県から来たという女子大生は、震災五日目から泊まり込んで既に二週間滞在しているという。物資を運搬する先々で真剣なまなざしで支援活動を行っている多くの若者たちを見た。私自身の参加の動機には青年会議所内部での立場や雑念があっただけに、これらの若者たちの姿が輝いて見えた。 阪神・淡路大震災を契機に、ボランティア活動に携わる人の意識や人数が変わったといわれている。恥ずかしながらわずか三日間の支援活動体験であったが、たくさんのことを学び取ることができたと感じている。また「自分さえ良ければ…」という自己中心的な社会的風潮の中にあって、今後どのような世の中を大人たちがつくっていかなければならないかを深く考えさせられた三日間であった。 (上毛新聞 2004年1月10日掲載) |